病院の中庭です。春には一面タンポポの花が咲きます。当医局が「お花畑」状態という意味ではありません。念のため。

2017年2月19日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル14(L.カナーの成功例08)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第8例を紹介します。

症例8:バーナード・S

 バーナード・Sは1949年8月3日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1952年6月7日(2歳時)で,通っていた保育園からの紹介だった。保育園の先生たちはバーナードについて「孤立している」「他の子供たちと一緒にはいるが,まったくとけ込んでいない」と心配したのである。バーナードの振る舞いは奇妙で,言葉はオウム返し(echolalia)が目立った。彼は自分のことを3人称(「彼(he)」)で呼び,しばしば意味不明の微笑みを浮かべていたという。

 バーナードの父親は薬剤師で,自分の店(ドラッグストア)で長時間働いていた。母親には躁うつ病による気分の波がみられ,バーナードが生まれる9年前には数ヶ月間精神科に入院したエピソードがある。バーナードは結婚から14年後に授かった子供であり,彼の誕生は両親にとっては大きな喜びと驚きであったらしい。

 バーナードが生まれてまもなく,彼の母親は再び精神的不調をきたし,約1年間精神科に入院した。この間バーナードは自宅を離れ,育児婦(nurse)の家で育てられていた。母親が退院してきて自宅に戻された時,バーナードは15ヶ月になっていて,一人で歩いていたが,「自分で食べることはできない状態」だった。母親は完璧主義者で,特に我が子の食事には強いこだわりがあったという。母親はその後も躁うつの気分の波を繰り返し,精神科医による治療を受け続けた。

 両親はバーナードが2歳半の時に別居生活となった。別居から半年後,母親が息子をつれてフロリダへ出奔するという騒ぎを起こしたため,父親はバーナードを引きとって,彼のおば(父親の姉妹)に育ててもらうことにした。この頃,自宅を訪問した保育園の先生は,バーナードがおばと楽しくリラックスして生活していたと報告している。「私ははじめてバーナードがペラペラとうちとけて(volubly)話すのを聞きました」養育にあたったおばは,バーナードを保育園に戻すことを拒否した。自宅で自分といる方が,「バーナードにとっては必要な愛情や関心を注がれ,誰かに本当に愛されていると実感できる」というのである。

 その後,両親が再び同居するようになったため,バーナードは実父母との3人ぐらしに戻った。彼は4歳の時に保育園へ再入所した。バーナードは優れた記憶力を持ち,保育園の全園児の名前を覚えて,誰か欠席した児童がいると先生よりも早くそれを指摘した。ただ集団活動は苦手で,ごく短時間しか参加できなかった。家では近所の子供達が彼を「おかしな子(crazy kid)」とからかって遊んでくれないので,はじめは自宅で独りでいることが多かったけれども,後には子供たちをクッキーで買収して,ある程度仲良くやれるようになったという。

 バーナードの父親は20歳の息子について次のように書いている。
 「バーナードは19歳で高校を卒業し,一般の短大に進みましたが,大学生活は大変でした。もともと学業成績は人並みで,勉強熱心なタイプではないため,シンプルで平凡な進路を目指したものの,大学でうまくいかずに2年間を空費しました。高卒後最初の1年間は「進歩的な」短大で寮生活を試みたのですが,そこは実際は「ヒッピーのたまり場」のようなところで,彼は勉強に身が入りませんでした。ちょうどその頃実母が死去したため,バーナードは実家に帰り,もう大学へは戻りたくないと言い出しました。その後,幼いころ本人の世話をしてくれた父方のおばが夫を亡くして本人・父親と同居するようになり,バーナードは元気を回復しました」

 バーナードの父親は1968年(本人19歳時)に再婚した。バーナードは新しく来た継母と仲良くつきあい,事実上,精神科的な治療は不要になった。

 父親によればバーナードは「恥ずかしがり屋で引っ込み思案ですが,それが彼の気質のようです。一度女の子をデートに誘ったものの,まったく積極的に振る舞えませんでした。バーナードは衣服には無頓着で(hates clothes),自動車を運転し,プレッシャーさえかけられなければ何でも一生懸命やります。父親のドラッグストアを手伝っていて,接客ではなく商品補充の仕事をしています。バーナードの最大の関心事は市街電車博物館で,そこのクラブの会員になっており,毎週日曜日には軌道をひいたり,車体の塗装をしたりしています。クラブの他の会員と旅行にいくこともあります。以前は歴史に熱中していました。今は国際政治に興味があり,新聞をよく読んでいます」。

2016年12月4日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル13(L.カナーの成功例07)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第7例を紹介します。

症例7:ウォルター・P

 ウォルター・Pは1944年6月16日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1952年7月8日(8歳時)。出生時から3歳半頃までは正常にみえたが,その後,母親から言語発達の異常に気づかれた。すなわち彼は異様なほど静かになり(ただぼんやりと周囲を見回しながら長時間じっと座っていた),やがてまったく言葉を発しなくなった。コマなどのおもちゃに対して並外れた執着を示し,それらの物がいつもの場所に置かれていないと落ち着かなかった。その反面,周囲の人間にはほとんど興味を示さず,自分の名前を呼ばれてもなかなか反応しなかったという。

 ウォルターの両親は社交的で,社会適応に問題はなかった。父親は2年間大学教育を受け,アメリカ合衆国連邦政府で条例関係の部署(ordinance engineer)で働いていた。息子(ウォルター)に関しては母親よりも正確で詳細な情報を教えてくれたという。ウォルターの母親も2年間大学に通い,銀行で働いて,息子の治療・援助に必要なお金を稼いでいた。父親も母親も自分たちの夫婦仲にはまったく問題はないと力説した。ウォルターには3歳年上の兄がいたが,この兄には特に問題はなかった。

 ウォルターは正期産だったが,生後3週間で幽門狭窄症(胃の出口が狭くなっていること)を発症し,手術を受けた。術後の経過は順調で,授乳には問題はなかった。生後2歳半頃からしゃべり始め,3歳までには排便・排尿のコントロールができ,この頃には何の異常も認められなかったという。

 ジョンズ・ホプキンス病院では,ウォルターは外見は魅力的だが,反応ぶりは不自然で,機械仕掛けの人形のようだった。病院スタッフにはほとんど注意関心を向けることなく,ぼんやりと窓の外をながめて,最低限の質問にだけ答えていた。セガン・フォーム・ボード検査(Seguin formboard:型板を同じ形態の穴に入れる課題)ではすべてのピースをすばやく正しい穴に入れることができた。「あなたのお名前は?」「あなたは何歳ですか?」「椅子に座って下さい」といった言葉には反応したが,それ以外の質問・指示には協力できず,言葉を使った検査は施行不能であった。ウォルターの行動は全体に繰り返しが多く,強迫的で,積極性に欠ける印象だった。

 ウォルターは9歳になっても依然として強迫的であり,ほとんど言葉を話さなかったが,「保育園(play school)」でそれなりの進歩をみせ,いくつかの単語をまねたり書いたりできるようになった。この時期には何か欠けたり壊れたりしたものを見ると,それを完全に破壊することにこだわっていたという。

 ウォルターが10歳の時,母親は「あの子はとても進歩しています」と語った。彼は知的障害児のための学校に通い,(英語を)書くことと,簡単な算数を勉強していた。彼は楽しそうにやっていたが,(英語を)読むのは苦手だった。他の子供達と遊んだり話したりする能力は進歩しており,自分の言いたいことはいえたので,電話で簡単なメッセージを伝えることもできた。ただ行動は強迫的で,皮膚が赤くなるまで自分の顎を叩いたり,繰り返し目をこすったりといった儀式的行為がみられた。母親は息子のことを,外出させても問題を起こさない,「かわいい良い子」だとみていたらしい。

 ウォルターに対してはその後,自宅近くの精神科クリニックでフォローアップが受けられるよう手配された。

 1971年(27歳時)にウォルターの母親は我々に次のような手紙を送ってくれた。
 「ウォルターは1956年(12歳時)から1962年(18歳時)の間,障害を持つ子供のための寄宿舎つきの学校に入り,週末ごとに寮から自宅へ帰っていました。その学校を卒業した後は,父親が亡くなったので,現在まで私(母親)と2人暮らしです。ウォルターは2年間別の学校に通った後,少しのあいだ保護的就労(sheltered workshop)で働きました。1968年(24歳時)の6月からは小さなレストランで時給1.25ドルの皿洗いと給仕助手の仕事をしています。彼はその仕事を楽しんでおり,雇用主には好かれていて,仕事を休んだことは一度もありません。ウォルターはハンサムな若者で,自室の掃除など日常生活は完全に自立しており,いつも身ぎれいにしています。周囲を心配させるような行動はありません。いつも私の家事を手伝ってくれ,自分で庭の手入れをしています。庭仕事ではエンジン付きの芝刈り機を上手に使い,メンテナンスも自分でやります。ウォルターの問題はコミュニケーションです。その気になればかなりはっきりと表現できるのですが,自発的な会話がないのです。自分の言いたいことは言えますし,かかってきた電話の応対もでき,その場で私が尋ねれば誰からの電話かを教えてくれます。ただ私の留守中に電話があると,私が帰宅後いちいち聞かないかぎり,電話がかかってきたことも教えてくれないのです」

2016年11月26日土曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル12(L.カナーの成功例06)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第6例を紹介します。

症例6:ジョージ・W

ジョージ・Wは1944年2月27日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1951年1月11日(6歳時)。母親の訴えは以下の通りであった。

 ジョージは生後18ヶ月からはっきりと話し,難しい言葉や文章を使えます。ただ話は一方的で,まったく会話になりません。「イエス」「ノー」で答えられる簡単な質問にも答えてくれないのです。ジョージは完全に自分独りの世界で生きています。赤ん坊の時から他の子のように笑うことはありませんでした。2歳の時にはアルファベットや数字を理解していましたが,これまで自分のことを一人称(I:私)で呼んだことはありません。

 ジョージは出産予定日から5週間過ぎて生まれた。出生時体重は3629g。両親は彼を厳格なスケジュールに従って育て,眠っている赤ん坊を起こして授乳することもしばしばだった。ジョージは13ヶ月で初めて言葉を話し,18ヶ月で独りで歩けるようになった。排便コントロールは18ヶ月で達成されたが,夜尿は6歳まで認められたという。粗大な運動発達は遅かったものの,安全ピンを止める外す,また歯磨き粉のチューブのふたを取り替えるなど,手先の微細な運動(協調)能力は良好であった。

 ジョージの父親は南米系の土木技師で,ジョージが生後6ヶ月の時に軍隊に入り,約2年間家を離れていた。2年ぶりに自宅へ戻った時,父親は息子とうまくかかわれず,ジョージの障害については何か身体的な問題(分泌腺関係)があるのではないかと疑っていたようだ。

 ジョージの母親は3年間大学で勉強した経験をもち,『知的探求』を重視していた。彼女は息子に非常に早い時期から文字や数字を教えた。ジョージの診療録は,この母親とその父親(ジョージの祖父)との葛藤に関する記述であふれている。彼女は自分の父親が不機嫌になるのを恐れる反面,その支配的言動に腹を立てていた。ジョージの母親は息子のあらゆる問題に関して自分を責めると同時に,何か奇跡的な出来事によって息子がたちまち完治するのではないかと,非現実的な期待を抱いていた。彼女はジョージが4歳の頃から酒に溺れはじめ,数年後にはアルコール依存症自助グループ(AA)に参加するようになった。

 ジョージは幼稚園でうまく適応できなかったためにジョンズ・ホプキンス病院へ紹介されたが,病院では担当セラピストとかろうじて人間関係を築くことができた。彼は聞いたことをオウム返しに話し,病院のスピーカーから放送される(呼び出しの)人名を繰り返して喋った。自分独自の言葉を作ることが多く,交通信号やエレベーターに夢中になっていた。

 ジョージは9歳時に気分障害を持つ児童のための施設に入所し,そこで6年間を過ごした。施設では様々なテーマへのこだわりが認められ,配管や照明のような機械装置,旅行,地図作成,身体的健康(バイ菌恐怖のために一日に何度も手を洗う)などに熱中したという。これらのこだわりはその後徐々におさまって,かわりに集団活動への興味が生じてきた。ただこの集団への興味はときどき減退することがあり,これは多くの場合職員の異動交代と関係していた。学校の宿題はおおむね良くできていたらしい。

 ジョージは15歳の時に施設から自宅へ戻り,公立学校に「年上の6年生」として編入した。ここでは周囲が「強いプレッシャーをかけずに適度に励ます」ことで,大きな問題なく過ごせた。担任教師は次のように述べている。
「ジョージは少し幼い6年生と同じくらいのレベルで,決められた規則に従っていました。ヴァイオリンを上手に演奏し,クラスメートとの交際を楽しんでいたようです。冗談を好み,思ったより人なつっこく見えました。また詩や言葉遊びが大好きでした」

 ジョージは母親の意向で11年生(高校2年生)の時に学校をやめ,音楽に専念することになった。彼はいくつものジュニアオーケストラでヴァイオリンを演奏しており,有名な音楽学校で授業を受けた。その後ジョージは高校卒業の資格を取得しようと考え,近年はもっぱら通信教育で勉強している。特に外国語に興味があり,スペイン語の授業を受け,フランス語を独習し,イタリア語について「実践的知識」を身につけた。現在は図書館で補助職員として働き,また郵送係として主に国外向けの本の発送を担当している。

 ジョージは今,両親と住んでいる。家の中の雑用を助けているが(母親は我々への手紙で「息子は頼りになる」と書いている),友人はおらず,「女の子は自分に興味を持ってくれない」という。ジョージは今,人を喜ばせることに過度に熱中しており,母親によれば「ジョージはリラックスするのが苦手で,いつも失敗を恐れています」とのことである。

2016年11月18日金曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル11(L.カナーの成功例05)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第5例を紹介します。

症例5:ヘンリー・C

ヘンリー・Cは1943年12月13日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1947年5月26日(3歳時)。

 ヘンリーは3歳になってもまったく会話ができなかったため,両親が心配してジョンズ・ホプキンス病院を受診させた。ヘンリーの発語能力は,うながされてようやくいくつかの単語を言える程度であったが,その一方でアルファベットのすべての文字と,句読点を正しく理解していた。またかなりの数のメロディーをそらで歌うことができ,ブロック遊びの技術は相当高かった。セガン・フォーム・ボード検査(Seguin formboard:型板を同じ形態の穴に入れる課題)では年齢相応の能力が示された。

 ヘンリーの両親はともに大学卒である。父親はヘンリーが6ヶ月の時からずっと軍務で自宅を離れており,1947年の4月にようやく帰還した。父親は自らのことを完全主義者「整理魔(bugs on keeping things in order)」と評した。ヘンリーの母親は,若い頃からてんかん発作と母親(ヘンリーの祖母)による強迫的支配に苦しみ,ヘンリーが生まれてからは自分が発作のために抱いた赤ん坊を落としてしまうのではないかと非常に緊張していた。実際母親は一度だけヘンリーを発作時に落としてしまったことがあり,赤ん坊に怪我はなかったものの,不安はさらに強くなった。このため母親はヘンリーを独りにしておくことが多く,また息子(ヘンリー)は独りでいるのが好きなのだと考えていた。

 ヘンリーは6歳の誕生日に里親に引き取られ,そこで目覚ましい進歩を遂げた。「ヘンリーはとても上手に言葉を使えるようになりました(1949年3月)」ときどき代名詞の逆転(reversing pronouns:自分のことを「私[I]」ではなく「彼[he]」あるいは「ヘンリー」と呼ぶ)があったものの,構文は正確で,1950年(7歳時)には通常の幼稚園で「問題なく」過ごせたという。「ヘンリーは楽しそうで,少しずつ他の子供達と関わろうとしています。ヘンリーの実母と里親は良い関係にありますが,ヘンリーの父親は『まるで氷山のように冷たく孤立』しており,実父母は離婚を検討中です」

 ヘンリーは1952年(9歳時)に改名した。最初は里親の名前をもらうつもりだったが,結局ファーストネームはそのまま(ヘンリー)にして,ミドルネームを守護聖人(patron saint)から拝借し,ラストネームは映画俳優からもらった。後に彼はこれを正式な名前として法的に登録した。

 1954年(11歳時)にジョンズ・ホプキンス病院を受診した時,ヘンリーは個人的興味や身の回りの出来事について表情豊かに語ったが,周りからもっと詳しく話すように促されると困惑していた。学校の成績は進級ギリギリだったけれども,学校側は彼の問題を理解しており,予定通り5年生に進むことになっていた。自宅では「死」と「殺人」に熱中して,それについて熱心に話し,絵を描いていた。

 1956年(13歳時)の8月にヘンリーと養母がヘンリーの実母のアパートを訪問してみると,実母は自室で死亡していた(管理人がアパートの鍵を壊して部屋に入った)。検死官の解剖の結果は「自然死」(?)で,ヘンリーはその知らせを聞いて「少し泣いたが,気分を変えさせるのは難しくなかった」という。

 ヘンリーは学校では特に問題なく過ごしていたが,家ではお行儀が悪く,しつこかった。またその傾向は特に実父と会った後に顕著になったという。ヘンリーは自宅で暇があると物語を書いていたが,そのテーマは「ホラー関係,殺人関係,SF関係」であった。タイプライターを打てるようになると,「物語はより長くなり,より生々しくなり,血なまぐさくなり,そしてしばしば意味不明だった」という。

 1958年(15歳時)の秋にヘンリーは全寮制の学校に入学し,そこの生活は彼の好みに合ったらしい。週末は養父母(里親)宅で過ごすことが多く,実父から一緒に過ごすよう誘われても断るようになった。

 我々はヘンリーのその後の経過をフォローするため,実父,養父母,そしてヘンリーの実母が遺したわずかなお金を管理していた後見人に手紙を送った。1971年10月4日(28歳時)にヘンリーの後見人は,当時住んでいたインドから次のような返事を送ってきた。

 「私がはじめてヘンリーに会ったのは彼が2〜3歳の時です。私は妻と彼の両親のアパートを訪れ,そこでトランプのブリッジをしました。その頃のヘンリーはまるで野生動物のようで,疲れて動けなくなるまで居間の中を落ち着きなく走り回っていました。次に会ったのは彼が15歳の時です。この時は非常に興味深い会話ができました。私はヘンリーが『正常になった』と感じ,また後に彼からもらった手紙からも,かなりよく適応していることがうかがわれました。私はヘンリーがそれ以来ほぼ自立して生活しているので驚いています」

 我々はヘンリーの住所を教えてもらい,近況を尋ねる手紙を送った。すると1972年(29歳時)の1月はじめに,ヘンリー自身から長い自叙伝風の手紙が送られてきた。残念ながらここではその手紙を一字一句紹介することはできないが,そのおおまかな内容は以下の通りである。

 ヘンリーは1962年6月29日(19歳6ヶ月時)に軍へ入隊した。基礎訓練を終えると,彼は情報部門に配属され,機密情報の利用許可を得て,1962年12月6日まで教練を受けた(その内容については高度機密に関係するため公表できないという)。1963年1月18日(20歳時)に名誉除隊した後,はじめはカリフォルニア州で,後にはペンシルバニア州で,合計6つの仕事についた。仕事の内容は一般事務員が多かったが,1972年の時点では「動画研究所の在庫管理責任者」をしており,「何度か大幅な昇給を獲得した」という。ヘンリーは何度かの転職をへて,「たぶん私は今ようやく,自分の能力に見合った仕事に落ち着いた気がします」と書いている。彼は手紙の中で自分の経験した6つの仕事について極めて詳細に記し,細かい日付,業務内容,上司の名前と電話番号,また離職の理由についても述べている。全体に「私は作業手順や勤務態度の問題で失職したことはこれまで一度もありません」という。

「関係者各位」と書かれたヘンリーの手紙は次のように始まっている。
 「私はこの履歴書を,私の生活,教育,仕事,経験についてはっきりした情報を知りたい,という人のために書きます。私は身長6フィート(183cm),体重145ポンド(65.8kg),髪は茶色,瞳の色は薄茶〜青色(hazel blue)です。私はまったく健康で,大きな病気やケガの経験はありません。自分の家を所有し,自動車を1台持っています。犯罪歴はなく,名誉除隊と徴兵免除の資格があります」

 他のところではこう書いている。
 「私は将来に関してはまったく心配していません。私は毎日をまるで人生最後の日であるかのように懸命に生きており,『明日なんて悪魔にくれてやれ(どうなってもよい)』という心境です。私は現在28歳で,独身です。何人かの女性が私の独身生活を終わらせようとしましたが,私は長時間束縛されること(結婚)には我慢できないようです。私はタバコも酒もやりません。ただギャンブルへの抑えがたい衝動があります(まったく弱点のない人なんていないでしょう)」

 ヘンリーの手紙は次のように終わっている。
 「私はカナー先生のことを一生忘れません。先生は私のためにたくさんの可能性の扉を開けてくれました。先生は私の中で消えかかっていた生命の炎を再び燃え上がらせてくれたのです。私は先生にどんなに感謝してもしきれません」

2016年10月23日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル10(L.カナーの成功例04)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第4例を紹介します。

症例4:クラレンス・B

クラレンス・Bは1940年6月15日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1945年5月31日(4歳時)。初診時,彼が2年前から通っていた保育所の職員は次のように語った。

 クラレンスは不器用で,背が高く,痩せています。保育所にはいつも喜んで通っているようですが,緊張が強く,特定の行動を繰り返す傾向が顕著です。環境変化に抵抗し,一つのことに集中して周囲の状況に気づかないことが多いです。彼の奇妙な行動(反応)は,知能が低いというよりも性格の問題のように思われます。クラレンスは文字,言葉,時計,絵に興味を示しています。彼は保育所に来てもまっすぐ教室に入ることはほとんどなく,ホールで立ち止まって時計を眺めたり,噴水式水飲み器(drinking fountain)の音を聴いたりして,なかなか先に進めません。この種のこだわり行動はいったん始まると,何日も何週間も毎日繰り返されます。クラレンスは他の子供達にはまったく興味がないようですが,子供たちの名札には強い興味関心を示します。2年前に保育所に入ってきた時,彼はほとんどしゃべれず,時々本の中の絵についてその名前を言おうとしたものの,その言葉はわれわれ職員にはほとんど理解不能でした。今ではクラレンスははっきりと話せます。ただ何か質問されても,それに答えるより,オウム返しに質問を繰り返すことが多いですね。

 クラレンスの妊娠,出産時の経過は正常。運動機能の発達には問題はなかった。初語は2歳時だが,発音は不良。顕著な反響言語(オウム返し)が認められた。母親によると「クラレンスは抱っこされるのがあまり好きではなく,場所・名前・出来事・物語に関して非常に優れた記憶力を持っていた」という。

 小児科的診察では,クラレンスは身体的にはまったく健康であることが示された。6歳4ヶ月時のビネー式知能検査で,精神年齢は5歳9ヶ月。読解力テストでは小学校3年生相当の課題に合格した。

 クラレンスは家族と自宅で生活し,公立学校に通った。ジョンズ・ホプキンス病院受診後は心理学者の定期的なフォローアップを受け,病院に発達の状況が報告された。両親は1951年(11歳時)に次のように語った。「クラレンスはかなりよく適応しています。時には正常な子と同じように見えることもあり,対人関係も大きく進歩しました」クラレンスは沢山の本を読み,話し方もいくらか改善したが,同級生の会話に加わるのは難しかった。特定のテーマへの熱中がみられ,そのテーマは火山→火→病気→突然死→破壊へと順番に変わっていった。両親は一時期兄妹(同胞)間の競争心が強すぎることを心配していた。1954年(14歳時)に中学2年生を優秀な成績(A's and B's)で修了した後,クラレンスは特別教育で有名なデヴルー学校(Devereux School)の夏期キャンプに参加して,よい評価を得た。彼は自分が周囲の仲間たちに受け入れられているかを気にかけるようになり,「対人関係に継続的に大きな努力を払うようになった」という。

 クラレンスは1958年(18歳時)の6月に優秀な成績で高校を卒業した。両親と夏を過ごした後,イリノイ州の大学に入学。そこを1962年(22歳時)に学位(B.A.)を得て卒業した。大学在学中には1人の女性と一時期「社会化(socialized)した」(交際した)という。その後奨学金を得てマサチューセッツ州の大学に進んだが,孤独感に悩まされ,学位論文は帰郷して書くことになった。こうして経済学の修士号を取得した後,クラレンスは出身州の大学で会計学を学んだ。その後彼は州政府の都市計画局に就職すると,都市計画について学ぶことにした。そしてその分野で修士論文を書くまでには至らなかったものの,それ以外の全ての修士の要件を満たすまで勉強したのである。

 クラレンスは管理職としての業務をうまくこなせず,1970年(30歳)の10月に退職することになった。1年間は新聞配達の仕事をして過ごした後,ようやく彼はその高等教育に見合う仕事,つまり年収7500ドル(1971〜1973年は1ドル=308円)の会計士の仕事に就き,現在(1972年32歳時)まで働いている。クラレンスは自分でアパートの部屋を購入し,生活上特に問題はない。強迫的に人づきあい(social contacts)を求める傾向があるが,社会性のレベルは「対人関係は不器用だが,表面的には適応している」といったところである。彼は困った状況になると,「僕は何か変なことしてない?(What  am I doing wrong?)」と周囲の人に尋ねる。彼は一時期ある女性と交際したものの,約9ヶ月後に別れることになった。自分は結婚すべきだが,「真剣でもない女性に無駄にお金を使いたくない」と語っている。クラレンスは車を運転するのが好きで,鉄道の時刻表収集を趣味にしている。

 クラレンスの姉妹の1人は教育学の修士号を持っており,別の姉妹は美術史学の修士号を持っている。彼女たちは2人とも結婚していて,そのうち1人には4人の子供がいる。クラレンスはこの子供たちと遊ぶのが好きで,「クラレンスが床に寝そべると,子供たちは彼の上で這いまわるんです」とのことである。

2016年10月1日土曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル09(L.カナーの成功例03)


ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第3例を紹介します。

症例3:エドワード・F

エドワード・Fは1939年10月11日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1943年11月15日(4歳時)。母親によるとエドワードは発達に遅れがあり,とても引っ込み思案だという。

 エドワードは自分一人の世界に入っているのが好きだった。家族の他のメンバーを認識するのに生まれてから約3年かかっている。彼の行動には高度なパターン化が認められた。例えば電柱を見ると必ずそれに触りたがり,次に棒を電柱に立てかけて,その周囲を繰り返し回って歩く。言語能力には偏りがみられ,理解が苦手で,話すのは比較的得意だった。

 初診時エドワードは2人兄弟の次男だったが,その後さらに2人の弟が生まれた。父親は「心配症」の弁護士で,エドワードが生まれた時34歳であった。彼はこの年「仕事に関する不安,失敗するのではないかという恐怖,夜間のパニック発作」のために精神科を受診している。エドワードの父親は「政治,世界の出来事,ハイキング,登山」に熱中していた。エドワードの母親は,夫と同じく大学卒で,夫より2歳年下。26歳で結婚するまでソーシャルワーカーとして働いていた。性格は「人間に興味があり,バランスのとれた性格。ただ論理的すぎるかもしれない。物事の判断にあたっては必ず4つから5つの理由を列挙する傾向がある」。エドワードの兄は健康で社会適応は良好であった。

 エドワードの外見はほっそりして,魅力的であり,いきいきとした黒い瞳はとても賢そうに見えた。診察室に入るとすぐにクレヨンと紙を見つけて,それに没頭した。母親にいわれてエドワードは自分が持ってきた本を読んでくれたが,そのやり方は,知っている言い回しを何度も繰り返し,それに自分で作った新しい言葉を散りばめて使うというものであった。その後,エドワードは鉛筆でクリニックの秘書の脚を突こうとしたが,かわされると今度は紙袋を攻撃した。彼は自分よりずっと年下の子供向けのゲームに熱中していた。

 エドワードは予定日より約3週間早く生まれた。出生時体重は5ポンド14オンス(約2665g)で,「手の爪が完全には発達していなかった」という。両親は彼の誕生を喜んだが,赤ん坊は「いつも元気がなかった(never very active)」。母乳の飲み方は弱々しく,周囲に関心を示さず,全体に無気力であった。生後4ヶ月で次のように普通の子供との違いが明らかになってきた。「抱き上げられると,だらりと弛緩する。出生時からずっと『生きよう』とする気力が感じられない」。

 エドワードは生後7ヶ月で座り,始歩は20ヶ月。「歩き始めた後でもハイハイをしたがる。足は偏平足で,矯正用の靴を履き,酔っ払った水夫のような歩き方で歩く」。手足の細かい運動は比較的得意だが,体幹部の大きな動きは苦手であった。言語能力の発達は遅く,しかも通常とは違うパターンであり,ようやく話し始めた内容もオウム返しが主体だった。排便コントロールは比較的早期に達成され,昼間の尿失禁は3歳までになくなった。

 エドワードがまだ幼いうちから母親が仕事を再開したため,母方祖母と家政婦がエドワードの世話をすることになった。この2人はエドワードに辛抱強く接したという。エドワードが4歳でジョンズ・ホプキンス病院を初診した時,母親は息子のことを心配して仕事を辞めており,その後エドワードは母親への愛着を形成できるようになった。

 5歳の時,エドワードは幼児自閉症の研究施設であるヘンリー・フィップス精神科クリニックに数ヶ月間入院した。エドワードは当時自分が入院していることに気づいていないようにみえたが,後に「他の子供が怖かった」とイヤな思い出を語った。

 6歳の時,エドワードは幼稚園に入った。そこでは理解ある先生が,エドワードのその時の状態によって,集団活動に参加するか,独りで遊ぶかを柔軟に判断してくれた。母親は息子の進歩を喜んで,次のように言った。「あの子はしゃべり,遊び,他の子達と同じように見えました。ただ社会性には問題があり,興味関心の範囲は狭く,学習の速さやパターンは普通とは違っていましたけれど」。全体にエドワードは「発達は明らかに遅れているが,一緒にいて楽しい子供」というレベルに達していた。

 7歳の時,エドワードは小学校の特殊学級に入学し,そこで2年間を過ごした。担任の教師は専門的訓練は受けていなかったが,共感的で,熱心であり,家族によればエドワードの成長に決定的な役割を果たした。最初はなかなか言うことを聞かなかったけれど,エドワードは2年間で大きく成長した。罰として1日間の自宅謹慎を命じられた時,エドワードは「要領をつかんだ(got the point)」らしい。2年間を特殊学級で過ごした後,エドワードは校長の許可を得て,普通学級の2年生に編入することになった。そこで1年間非常によくやったので,翌年エドワードは飛び級で4年生に進級した。その後エドワードは社会性の問題を抱えながらも,学業面では他の子供たちに比べてまったく遜色なく過ごすことができた。ただボーイスカウトで適応することは難しかった。

 エドワードはいつも音楽が大好きだった。12歳の時,音楽のレッスンを受けて作曲の素質を見出されたが,高校生活ではそんな余裕はないだろうと自ら音楽の道をあきらめ,両親をがっかりさせた。この頃,強迫傾向はあまり目立たなくなっていたものの,強迫観念(fixed ideas)は残っていた。

 エドワードが13歳でジョンズ・ホプキンス病院を再診した時,彼は公立学校の8年生(日本の中学2年生相当)で,学業成績は中くらいだった。ただ対人交流には大きな困難があり,自己表現のやり方は奇異,自分をとりまく社会的状況を正しく理解するのは非常に苦手だった。

 1970年に母親はジョンズ・ホプキンス病院へ手紙をくれた(エドワード31歳時)。それによるとエドワードは周囲の予想よりもずっとうまくやっているという。エドワードは19歳で高校を卒業し,大学への進学を希望した。母親はおそらく他の家族と同じようにしたいという思いがこの進学希望につながったのだろうと考えていた。種々の(心理)検査が行われ,言語性能力(verbal)は優れているが,動作性能力(performance)は普通という結果が得られた。エドワードは大学入試に挑戦して州立大学に入学し,園芸学を専攻した。しかし化学の成績が悪かったため,歴史学専攻に切り替え,5年間かかって学士号(B.A.)を取得した。大学在学中,エドワードは学生寮に入っていたが,長続きする友達は一人もできなかったという。

 大学卒業後,エドワードは園芸関係のよい仕事を得たものの,うまく適応できず,退職を余儀なくされた。この出来事は彼を非常にがっかりさせた。その後1970年までの数年間,エドワードは政府関係の農業研究所で肉体労働に従事している。彼はこの仕事があまり好きではなく,もっと「教養ある人達」と交際したいと望んでいる。エドワードは自分のアパートを所有し,余暇にはステレオセット(Hi-fi set)で音楽を聴いて楽しむ。お金を貯めて車を買うこともできた。ハイキングクラブに所属しており,時にはリーダーとして徒歩旅行を企画引率する。植物や野生生物に関する知識で周囲から尊敬され,最近では女性とのデートもはじめた。時間のあるときは週末に実家を訪れ,家族からは大いに歓迎されている。

 母親は手紙にこう書いている。「私たちがエドワードのために,エドワードと一緒に,彼のあらゆる人生の段階で工夫しなければならなかった全てのことを記録したら,何冊もの本ができ上がることでしょう。でも今やエドワードは経済面でも生活面でも完全に自立しています。私は彼が自分の人生を楽しんでくれていると確信しています」

2016年9月11日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル08(L.カナーの成功例02)


ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第2例を紹介します。
この人は12例中,唯一の女性です。

症例2:サリー・S

サリー・Sは1937年5月6日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院を1943年3月8日(5歳時)に初診した。初診時には典型的な代名詞の逆転がみられた(pronominal reversal:自分のことを「私[I]」ではなく「彼女[she]」あるいは「サリー」と呼ぶ)。カルテには次のように記されている。

サリーは体格が良く,魅力的で,いかにも賢そうに見えた。身体診察では特記すべき異常は認められなかった。彼女の最大の問題は,周囲の人や状況とうまく関われないところにある。孤立と強迫傾向が明らかで,記憶力は驚異的,またパズルを解く能力は年齢平均よりもかなり高かった。

サリーの両親は2人とも大学卒である。父親は広告のコピーライターで,妻(サリーの母親)によれば「とても家族思い。特別暖かみのある人柄ではないが,みんなから好かれる。私とは違って人の世話を焼くタイプではない」。サリーの母親は図書館司書として働き,自らを「過激な民主党員。とてもせっかちで,橋に到着する前にそれを渡ろうとするタイプ」と評した。
サリーの父方祖父は弁護士として大いに成功したものの,女性とアルコールの問題があり,自殺している。父方祖母は夫の死後,老人ホームの経営者となった。サリーの母方祖父は外科医で,癌で死去。母方祖母は一時期学校の教師として働いていた。
サリーには3歳年上の兄がいるが,彼は反抗的な性格であった。

サリーは満期産で出生。健康状態はきわめて良好だった。生後10ヶ月で起立したものの,始歩は22ヶ月。1歳にならないうちから強迫傾向とかんしゃくが明らかになってきた。つまり家族がいつもの椅子に座らなかったり,毎日の散歩の手順が変わったり,トレーの上の食器の位置が変わったり,自宅の庭に出るのに決まったドアを通れなかったりすると,必ず大きな叫び声を上げたのである。また彼女は人体機能に関係するあらゆる事柄に対して強迫的な興味関心を示した。

サリーは地元の学校に通い,不登校はなかった。小学校6年生(13歳)の時,完全版WISC知能検査を受けて,全IQ110(言語性IQ119,動作性IQ98)と平均以上の結果であった。学業成績は,英語の綴りとフランス語がA,地理と算数と聖書史と図工がB,そして英語読解がCだった。学校の心理カウンセラー(psychologist)は「周囲との関係がうまく作れず,適応に困難がある」というコメントを残している。

サリーは1953年12月6日にジョンズ・ホプキンス病院を再診した(16歳)。母親は近況について「10年前よりも集団への適応という面で進歩しています。今は高校2年生(eleventh grade)ですが,学校の勉強は記憶力頼みで,推理・思考は苦手です」と語った。サリー自身は自分のことを「ガリ勉の詰め込み屋(plugger)」と呼び,良い成績をとるために自分自身にかなりプレッシャーをかけていると認めた。「去年までの学校の勉強は暗記中心だったから,私の得意な記憶力が役に立ったけど,今年からは物事の理由を考えるように求められていて,大変です」
サリーは大学への進学を希望していたが,「望みが高すぎるかもしれません」とも言っていた。同級生との関係については「女の子達はとても親切で,私に良くしてくれます。でもいくつかの点で私には他の子達と違うところがあるんです。私は同年代の女の子達のようには男の子に関心を持てないんです」と語った。
また彼女は酒と非行の問題で学校を退学させられた兄のことを心配していた。ガソリンスタンドで働く兄をサリーは「思春期のひどい被害者」と呼び,「精神科的援助が必要です」と言った。

高校を卒業するとサリーは女子大に入学し,平均成績「B」で大学を卒業した。大卒後,彼女は看護師になりたいと考え,規則と秩序にのっとった生活を望んだが,病院実習でつまずいた。複数の診療科で実習を行う中で,新しい環境にうまく適応できないことが判明したのだ。
「多分私は物事をキチンとやろうとして,神経質になりすぎていたんだと思います」
産科病棟での実習中,サリーは学部長から進路について考えなおすように勧められた。彼女は通常の授乳時間は20分間と教えられると,授乳開始からきっかり20分で母子のいる病室へ入っていき,一言もいわずに母親から赤ん坊をとりあげた。このため母親たちから多くの苦情が寄せられたのである。
サリーはすぐに学部長の助言を受け入れた。臨床検査へと志望を変更し,その後は検査技師として立派に勤めを果たした。
1968年にサリー(31歳)と家族はシカゴに転居した。彼女はそこで病院の検査技師の仕事を見つけ,職場では「化学に関する素晴らしい能力」によって高く評価された。

1970年(33歳)に彼女を診察した精神科医は次のように記録している。
「サリーは長年にわたって自分の社会性を進歩させようと苦闘してきた。現在ある男性と半年間交際しているが,実際のところ親密な人間関係というものに明らかな恐れを抱いている。彼女は周囲からの勧めもあり,自らの音楽への興味を利用して,教会の合唱団の中で自分の居場所を見つけた」

サリーの父親は1969年に自殺した。兄はアルコール依存症にかかっている。サリーは熟練した臨床検査技師として熱心に働き,友人や知人との関係を維持するよう努力している。サリーは母親と互いに連絡をとりあっており,母子関係は良好である。

[論文の考察から補足]
サリーは23歳の時に真剣に質問した。「もし私が万が一誰かのことを好きになったら,私は何をしたらいいんですか?」彼女はそれまで恋愛感情というものを抱いたことがなかったのだ。またサリーは「私は同年代の女の子のようには男の子に興味を持てません」とも言った。30歳になって彼女はある男性と数ヶ月間交際したが,「親密になることを恐れた」ためにその交際は長続きしなかった。