病院の中庭です。春には一面タンポポの花が咲きます。当医局が「お花畑」状態という意味ではありません。念のため。

2017年3月26日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル18(L.カナーの成功例12)

ブログ管理担当のまさぞうです。


今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,最後の第12例を紹介します。

本例も1943年にカナー先生が書いた
自閉症についての世界初の論文で報告された11症例のうちの1つです。

症例12:フレデリック・W

 フレデリック・クレイトン・「ウィッキー(Wikky)」・Wは,ジョンズ・ホプキンス病院を1942年5月29日に初診した。彼はその時,あと1週間で6歳になるところだった(1936年6月5日生まれ?)。母親は以下のように述べている。

 息子はいつも自分だけの世界に生きています。私はウィッキー(息子)が誰かの注意を引こうとして泣くのを見たことがありません。他の子供と一緒に遊ぶのが苦手で,去年までは周りの人たちを完全に無視して行動していました。約1年前から少しずつ周囲の人間を観察するようになりましたが,それでも自分以外の人間は邪魔者と感じる方が多かったようです。同じもの(同一性)へのこだわりはある程度あり,自宅の本棚の上に置いてある3冊の本の順番が変わるとそれが気に入らず,必ず自分の好きな順番に戻していました。2歳前には2語以上の文章を言えるようになりましたが,2〜3歳の頃は自分の話した言葉に自分でびっくりしているような様子がありました。ウィッキーが生まれて初めてしゃべった言葉の一つは「つなぎ服(overalls)」です。2歳頃から歌を歌えるようになり,その後,フランスの子守歌など20〜30曲の歌を覚えました。4歳の頃,私はウィッキーに何かものが欲しい時は,自分でとりに行く前に,誰かに言葉で頼むようにさせようとしました。しかし彼は私よりも頑固で,粘り強かったようです。ウィッキーは絶対に私の意図に従おうとはしませんでした。5歳の今では100以上の数まで数えられますし,数字を読むこともできます。ただその数字と,モノの数という概念は,彼の中では必ずしも結びついていないかもしれません。ウィッキーは(私,あなた,彼,彼女などの)人称代名詞をうまく使えません。人から何かプレゼントをもらうと,自分自身に向かって「キミ(自分自身)は『ありがとう』というんだよ(You say, 'Thank you.'」と言っています。

 ウィッキーは母親が腎臓に問題を抱えていたため,出産予定日の2週間前に計画的な帝王切開で出生した。出生時にはまったく元気で,授乳も順調であった。ただ母親はウィッキーが抱き上げられる時に,それを予期して迎え入れるような姿勢をとらないことに気づいていた。ウィッキーは生後7ヶ月で座ることができ,18ヶ月で歩けるようになった。

 ウィッキーは一人っ子だった。父親は植物病理学者(plant pathologist)で,「辛抱強い,落ち着いた人物」であり,父親自身の幼少期は言葉の発達が遅く,「繊細(delicate)」だったという。母親は「健康で,穏やかな性格」,職歴として秘書,購買係,また歴史の教師として働いたことがある。ウィッキーが生まれたとき,母親は34歳,父親は38歳であった。

 ウィッキーの父方祖父は変わった経歴の持ち主である。彼は1943年に自伝を出版したが,それは「合計11人の子供と孫たちに」献呈されている。彼は1911年に失踪し,25年間行方不明であった。その間,妻と離婚することなくイギリス人の女流小説家と結婚していたという。紳士録(Who's Who)には実名と変名の2つで載っており,4つの大陸を股にかけ,マンガン採掘,美術館の取締役,医学部の学部長,また医療使節の組織などの仕事をした。彼の(法律上の)妻は「生え抜きの宣教師」であった。彼は5人の子供をもうけ,ウィッキーの父親は2番目の子供である。4人いる息子のうち1人は新聞社に勤め,もう1人はSF作家,別の1人はテレビ局勤務,また娘は歌手として働いた。ウィッキーの母方の親戚については,ウィッキーの母親によれば「私の一族はとても普通の人たちです」ということである。

 ウィッキーの栄養状態は良好であった。頭の後部と前部が隆起していたが,レントゲン写真では頭蓋骨に異常は認められていない。生まれつき左の脇に3つ目の乳首があった。左右の扁桃は大きく,表面は凸凹していた。

 ジョンズ・ホプキンス病院の診察室では,ウィッキーはしばらくウロウロと歩き回った後,椅子に座って,意味不明のことをつぶやき,それからニコニコ笑いながら突然床に寝そべった。質問や指示に対してはまったく無反応だったり,オウム返しで応じたりした。人間よりもモノに興味を示し,物を扱うときの注意力は良好だった。ウィッキーは周囲の人たちを「好ましからざる侵入者」と考えていたようである。誰かが彼の面前に手をかざして,それを無視できない状況になると,ウィッキーはその手を(人間の身体の一部ではなく)独立した物体のようにして遊ぶのであった。ウィッキーは診察室にあった積み木と穴の形を一致させる型板(form boards)検査の道具をすばやく見つけると,自分から興味を持って課題に取り組み,上手に形を合わせることができた。

 ウィッキーは1942年9月(6歳時)に特別教育で有名なデヴルー学校(Devereux School)に入り,1965年8月(29歳時)までそこにいた。我々(ジョンズ・ホプキンス病院)と学校は頻繁に連絡をとり続けていたが,1962年の学校からの報告には次のようにある。「ウィッキーは現在26歳で,自発性はないものの,人からは好かれるタイプの男の子(boy)です。主な関心事は音楽です。日常生活のスケジュールはきちんと守ることができ,基本的に自分独りの世界で生きていますが,興味を持てる内容の集団活動には楽しんで参加することもできます」。ウィッキーは学校のお遊戯会(Parents' Day)では合唱グループに所属し,年1回の学校祭(carnival)ではスピーカー係を担当した。週末の休みには独りで近くの町へ出かけ,必要な買い物を自分でしていたという。

 ウィッキー(現在はクレイトンと呼ばれている)は,5年前から両親と一緒に住んでいる。彼は現在34歳である。デヴルー学校を出た後,クレイトンは家族とともにプエルトリコで1年間すごした。彼はそこで「たくさんのスペイン語を覚え,毎日午後4時からレコードで語学の勉強をする習慣がついた」。クレイトン一家はその後ローリー(Raleigh:米国ノースカロライナ州の州都-訳注)に移った。家族はジョンズ・ホプキンス病院への手紙で次のように述べている。
 「私たちは新しい家に落ち着きました。クレイトンは家事を分担してくれています。彼は近所の人たちと知り合いになり,時々ご近所を訪問することもあります。クレイトンは郡の作業所や職業訓練所に通い,そこでスタッフと仲良くなったり,他の研修生の援助をしたりしました。さらにそこでのお付き合いからボウリングを覚えて,今ではかなり上達しています。クレイトンは作業所からの推薦で,コピー機関連の単純作業の仕事につきました。1969年11月25日(33歳時)からは,アメリカ合衆国厚生教育福祉省(HEW)管轄の国立大気汚染管理局で,フルタイムの仕事をしています」
 上司である局長代理は,1970年4月29日付(33歳時)の手紙でクレイトンについて次のように評価している。
 「クレイトンは信頼性,完全性,同僚への思いやりといったあらゆる点からみて,すばらしい職員である」

2017年3月20日月曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル17(L.カナーの成功例11)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第11例を紹介します。

本例と,次の12例目は,1943年にカナー先生が書いた
自閉症についての世界初の論文で報告された11症例の一部です。

症例11:ドナルド・T

 ドナルド・Tは1938年10月14日(5歳時)にジョンズ・ホプキンス病院を初診した。父親は30ページにおよぶ自作の病歴書類を持参し,そこにはドナルドの生育状況が完璧に記録されていた。ドナルドは1933年9月8日に満期正常分娩で生まれ,8ヶ月間母乳で育てられた後,様々な調合法の人工栄養(ミルク)が与えられたという。13ヶ月で独歩可能となり,歯牙発生も順調であった。

 ドナルドは1歳の時から数多くのメロディを正確にハミングしたり歌ったりしていました。彼は家族に教わっていくつかの短い詩を暗誦することができ,さらに旧約聖書の詩篇第23篇や,長老派教会の25の教理問答も覚えていました。さらにコンプトン百科事典にのっている数多くの絵をたちまち記憶してしまい,すべてのアルファベットを順逆両方の順番でいえるし,すぐに100まで数えられるようになりました。ただ音韻やそれに関連する事柄を除き,自分から質問したり,人の質問に答えたりはしませんでした。ドナルドは完全に自分だけの世界に生きているようで,あやしてもらっても相手に愛情を示すことはありません。自分の周囲に人が現れたりいなくなったりしても気づきませんし,まるで自分の殻の中に引きこもっているようです。彼は自分の名前を呼ばれてもそちらへ行くことはほとんどなく,どこかへ行かなければならない時は抱き上げるか,手を引いて誘導してやる必要があります。自分の行動をじゃまされるとカンシャクを起こし,暴れることも少なくありません。2歳の時には回転する積木,皿,その他の丸い物が大好きで,逆に自走式の車の玩具は嫌いでした。ドナルドは5歳の今でも三輪車が大嫌いで,むりやりに乗せるとほとんど恐怖に震える状態になります。

 ドナルドは1937年の8月(3歳時)に「環境を変えるため」という理由で保護収容施設(州立結核予防療養所)に入れられた。そこでのドナルドは「いつも何か考えているような放心状態(abstraction)で,周囲の物事には気づかない様子でした。彼の注意を引くためには,そのたびに彼の心の内界(conscience)と,周囲の外界との間にある壁を壊す必要があります」。この状況を見たドナルドのかかりつけ医は,ジョンズ・ホプキンス病院への受診をすすめたが,施設の責任者はそれに反対した。責任者は「ドナルドは施設でうまくやれており,現在さらに完璧な状態になりつつある。彼についてはこのまま独りでそっとしておくのがよい」と主張したのである。ドナルドの両親がジョンズホプキンス病院への受診を要求し,病院への情報提供を希望すると,責任者は1/2ページ足らずの短い紹介状に「ドナルドは精神的に集中するタイプの子供で,あるいは何か分泌線の異常(glandular disease)があるかもしれない」と書いてよこした。

 ドナルドの父親は肉体的には息子とよく似ていた。「几帳面で仕事熱心な弁護士。仕事は成功しており,物事を何でも非常に真剣に受け止める傾向がある。通りを歩く時もいつも物思いにふけっていて,周囲の物や人は目に入らず,歩いている時のことはまったく覚えていない」。ドナルドの母親は大学卒の資格を有し,有能で物静かな性格。夫(ドナルドの父親)は彼女に対して優越感を持っていた。この夫婦には1938年5月22日(ドナルド4歳時)に次男(ドナルドの弟)が生まれている。

 ジョンズ・ホプキンス病院の初診時,ドナルドは身体的にはまったく健康であった。その後,彼はメリーランド州の保護施設「こども学習の家(Child Study Home)」に2週間預けられ,そこでユージニア・S・キャメロン医師とジョージ・フランクル医師によって詳細な行動観察が行われた。ドナルドはフォローアップのためにそれから3回,ジョンズ・ホプキンス病院を訪れている。紙面の制約上,カルテ記録や母親(息子の治療に積極的に関わるようになっていた)との頻繁な手紙のやりとりの詳細については紹介できないが,結局,初診時にドナルドの父親が持参した病歴書類の内容が正しかったことが証明された。ドナルドは微笑みながらウロウロと歩き回り,手指で同じ動作を繰り返しながら,頭を左右に振り続け,3個の音符からなるメロディーを何度も繰り返しハミングしていた。彼は手で持って回転させられる物体を見ると,何でもくるくる回して大喜びした。行動全体が反復的で,動作のパターンは毎回判で押したように同一である。ドナルドの言葉はオウム返しが特徴的で,自分に向かって言われた言葉を,主語を相手に変えてそのまま繰り返し,時には相手の言葉の抑揚(イントネーション)まで真似ることもあったという。

 ドナルドは1942年(9歳時)に,自宅から約10マイル(16km)離れたある貸農場(tenant farm)に預けられた。私(カナー医師)は1945年5月(11歳時)にその農場を訪ねたのだが,その時私はドナルドの世話をしているオーナー夫婦の賢いやり方に驚いた。彼らはドナルドの反復行動にうまく目標を設定することで,常同行為にある種の生産性を付与していたのである。例えばドナルドの何でも計測したいというこだわりに対しては,井戸を掘りながらその深さを報告させることで,こだわりを作業を進める励みに転化させていた。また死んだ鳥や虫を集めてくるというこだわりに対しては,ドナルドに農場の敷地の一画を「墓地」として与え,そこにお墓を建てさせていた。ドナルドは一つ一つの墓に簡単な墓標をたて,それに鳥や虫につけた名前(ファーストネーム),小動物の種類(ミドルネーム),そして農場主の姓(ラストネーム)を記していた。例えば「ジョン・カタツムリ・ルイス,生年月日は不明,死亡年月日はxx年x月x日(死骸が発見された日)」という具合である。畑でトウモロコシの列(うね)を繰り返し数えるというこだわりに対しては,トウモロコシ畑を耕しながら数えさせるという方法をとっていた。私が見ている間にドナルドは6つの長いうねを耕した。彼が馬を上手に操ってうねをつくり,さらに畑の端で方向転換する様子は実に見事であった。農場主のルイス夫妻は明らかにドナルドを愛しており,優しく,そして節度あるやり方で彼に接していた。ドナルドはルイス夫妻の農場から地域の学校に通っていたが,そこでは彼の風変わりなところは理解・受容されていて,学業成績は良好であった。

 以下の記述は,1970年4月6日付のドナルドの母親からの手紙にもとづく。

 息子は現在36歳独身で,私たちと実家に住んでいます。1955年(22歳時)に関節リウマチの急性発作を起こしましたが,幸いにも数週間で治まりました。それ以外は身体的には完全な健康を保っています。ドナルドは1958年(25歳時)に大学で文学士(A.B. degree)の学位を取得して以来,地方銀行で出納係の仕事をしています。彼はその仕事に満足していて,昇進の希望はないようです。職場での対人関係にはまったく問題はありません。一番の趣味はゴルフで,地域のカントリークラブで週に4〜5回プレーしています。地域のゴルフ大会のアマチュア部門で6回優勝したこともあります。ドナルドはキワニスクラブ(Kiwanis Club:主に子供のための活動を行う国際的社会奉仕団体-訳注)で1期会長をつとめ,米国青年会議所(Jaycees)や投資クラブ(Investment Club)に所属し,長老派教会の日曜学校の幹事でもあります。周囲の人達から頼りにされており,与えられた仕事をきちんとこなし,青年会議所の会報の編集では独創性も発揮しました。彼はいつも冷静ですが,自分の考えもきちんと持っています。自家用車を2台所有していて,生活を楽しんでいます。自宅の部屋には自分専用のテレビ,レコードプレイヤー,そして数多くの本があります。大学時代はフランス語を専攻していて,語学には特別な才能があるようです。トランプゲームのブリッジではフェアプレイヤーとして知られていますが,自分からはしようとしません。彼の最大の欠点は,自分から自発的に物事を始めようとしないというところでしょうか。ドナルドは世間話に加わることはほとんどなく,異性にはまったく関心がないようです。

 ドナルドは完全に正常という訳ではありませんが,社会の中で私達が夢にも思わなかったほど良くやっています。もしこの先も現在の状況を維持できるなら,彼はほぼ自立しているといえるでしょう。ドナルドの成長に関して,私達はカナー先生に本当に感謝しています。どうかカナー先生に,ドナルドがかつて4年間お世話になった農場のルイス夫妻と私たちがまだ親しくしており,しばしば会っているとお伝え下さい。ドナルドは気分の問題を抱えていましたが,薬を使わずにすますことができました。私はドナルドが心の中で本当はどういう風に感じているのか,できることなら知りたいと思います。彼が今の状態を維持できる限り,私たち家族は感謝の思いで満たされ続けることでしょう。

2017年3月13日月曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル16(L.カナーの成功例10)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第10例を紹介します。

このケースについての記述は多くありませんが,
「成功した症例の中でも最もうまくいったケース」
とのことです。

症例10:ロバート・F

 ロバート・Fは8歳時にジョンズ・ホプキンス病院を紹介受診し,現在(1954年?)は23歳である。
 ロバートは他の自閉症の子供たちよりも高い社会適応レベルに達している。ジョンズ・ホプキンス病院の初診時(8歳時)には明らかな自閉症の特徴を呈していたが,その時すでに成長・改善の兆しがみられた。
 ロバートは2年間海軍で気象学者(meteorologist)として働き,結婚して健康な息子を1人もうけた。最近は作曲の勉強をしており,いくつかの作品は室内管弦楽団で演奏されたという。

 全12例の紹介が完了したら,カナー先生の考察を日本語訳し,その後で(蛇足とは思いますが)まさぞうの感想をお示ししたいと考えております。

2017年3月6日月曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル15(L.カナーの成功例09)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第9例を紹介します。

症例9:フレッド・G

 フレッド・Gは1948年12月11日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1952年8月11日(3歳時)である。両親によると,フレッドはまず出生から6週間,断続的な泣きと腹痛の発作(colic)で家族を心配させたという。家族はみな心配してフレッドを抱いて歩きまわったが,フレッドはその腹痛発作がおさまった後も周囲の関心を引こうとして泣きつづけた。この問題はある賢い育児婦(nurse)が,「泣きたいだけ泣かせておく(cry it out)」という方針で臨むと解決した。生後3ヶ月の時,フレッドははじめて祖母の家に行き,先方に到着するとすぐ祖母の腕に抱きとられた。その時彼は恐怖のあまり3週間の滞在中ずっと叫び続け,それ以来知らない人を極端に怖がるようになった。

 フレッドはビネー式知能検査において,必要な動作の一部をきちんとやり遂げる能力を持っていましたが,こちらの指示に完全に従うことはできませんでした。型板(formboard)の穴と積み木を一致させる簡単な課題をやってみた時,穴と積み木の形を一致させるよう指示すると,フレッドは手を動かすより先にまず形の名称を呼びました。彼は自分と同じ部屋にいる人たちを完全に無視しており,何か問いかけられるとオウム返しに質問を繰り返すことが目立ちました。

 フレッドは帝王切開で出生し,生後14ヶ月で歩き,1歳の時に話し始めた。言語発達は良好で,たくさんの言葉を知っていたが,1人称(私[I])を使おうとせず,「はい(Yes)」というかわりに相手の言葉をオウム返しに繰り返すことが多かった。離乳は通常より遅くて難しく,また排便コントロールも簡単ではなかった。

 フレッドは家では音楽に熱中し,3歳の時にはレコードの外見から違いを識別できた。また曲を聞くと,「これはモルダウだ」「ベートーベンの(交響曲)5番だ」などと言い当てた。ジョンズ・ホプキンス病院の初診より6ヶ月前,フレッドは保育園に入園したが,他の子供達を非常に恐れていた。数日間母親が保育園でいっしょにいることで落ち着きを取り戻したが,フレッドは周囲の人達をまったく無視し,あらゆる集団活動に参加することを拒否して,「ただそこにいるだけ(was just there)」という状態であった。母親は自宅での息子について「これ以上ないというくらい,いい子です。ただ一人でいるのが好きみたいですけど」と語った。フレッドはおもちゃや道具などのモノ(inanimate objects)に対して,自分の思い通りにならないと怒りを爆発させることがあった。

 フレッドの父親は内科医になりたかったが,経済的事情から医学部進学をあきらめ,医学に関係する別の学校に進学した。3年後,彼はその学校をやめて,政府の秘密文書や秘密任務に関与する仕事についた。フレッドの母親は大学を卒業した後,数年間学校で教師として働いたが,フレッド誕生の1年前に退職している。フレッドの母親の家族は押しの強い人(pusher)ばかりで,母親自身も知的好奇心が強かった。母親は息子の障害について自分が責められるのではないかと恐れていた。全体にフレッドに関しては,家庭的(養育環境の)問題はなさそうで,家庭の雰囲気は音楽や知的議論といった文化的活動を重視する傾向があったといえる。

 フレッドは1952年(4歳)から1955年(7歳)の約2年半の間,感情の問題を持つ子供達のためのデイケアセンターに定期的に通った。彼はそこの責任者の女性と仲良くなり,通所終了後も数年間ときどき会っていたという。

 16歳の時のWISC知能検査で,フレッドは全IQ118(言語性IQ126,動作性IQ104)であった(IQの平均値は100であり平均以上の知能を示す-訳注)。下位検査のうち算数は最高得点で,回答もすばやかった。理解,類似,機械的記憶の下位検査は「平均の上」レベルであった。ロールシャッハテストでは,「衝動性と抑圧の間を激しく行き来している」「他者と関わろうとする気持ちと孤独を求める気持ちの間で戦っている」というコメントが得られている。

 23歳の現在,フレッドは大学生で,成績は平均B+と良好である。彼は数学の才能に恵まれており,大学生活での適応も問題なく,周囲の学生からは学問的才能によって尊敬されている。病的なこだわりは目立たず,例えば服装はきちんとしているが,かつてのように服に異常にこだわることはない。

 フレッドの現在の印象は「知的だが不器用」というもので,彼自身は同年代の他の若者と同じように行動しようと努力している。例えば「試験的に」ダブルデートをしてみたが,これは1回だけで後が続かなかった。フレッドは自動車を上手に運転するだけでなく,車の個々の部品について完全な知識を有している。また暇な時間には趣味で作曲をしたり,望遠鏡を組み立てたりもしている。

 フレッドは大学1年までは両親と同居していた。2年生からは本人の希望で寮に入ったが,家族(特に父親)は実家を離れることを少し心配していたという。

2017年2月19日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル14(L.カナーの成功例08)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第8例を紹介します。

症例8:バーナード・S

 バーナード・Sは1949年8月3日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1952年6月7日(2歳時)で,通っていた保育園からの紹介だった。保育園の先生たちはバーナードについて「孤立している」「他の子供たちと一緒にはいるが,まったくとけ込んでいない」と心配したのである。バーナードの振る舞いは奇妙で,言葉はオウム返し(echolalia)が目立った。彼は自分のことを3人称(「彼(he)」)で呼び,しばしば意味不明の微笑みを浮かべていたという。

 バーナードの父親は薬剤師で,自分の店(ドラッグストア)で長時間働いていた。母親には躁うつ病による気分の波がみられ,バーナードが生まれる9年前には数ヶ月間精神科に入院したエピソードがある。バーナードは結婚から14年後に授かった子供であり,彼の誕生は両親にとっては大きな喜びと驚きであったらしい。

 バーナードが生まれてまもなく,彼の母親は再び精神的不調をきたし,約1年間精神科に入院した。この間バーナードは自宅を離れ,育児婦(nurse)の家で育てられていた。母親が退院してきて自宅に戻された時,バーナードは15ヶ月になっていて,一人で歩いていたが,「自分で食べることはできない状態」だった。母親は完璧主義者で,特に我が子の食事には強いこだわりがあったという。母親はその後も躁うつの気分の波を繰り返し,精神科医による治療を受け続けた。

 両親はバーナードが2歳半の時に別居生活となった。別居から半年後,母親が息子をつれてフロリダへ出奔するという騒ぎを起こしたため,父親はバーナードを引きとって,彼のおば(父親の姉妹)に育ててもらうことにした。この頃,自宅を訪問した保育園の先生は,バーナードがおばと楽しくリラックスして生活していたと報告している。「私ははじめてバーナードがペラペラとうちとけて(volubly)話すのを聞きました」養育にあたったおばは,バーナードを保育園に戻すことを拒否した。自宅で自分といる方が,「バーナードにとっては必要な愛情や関心を注がれ,誰かに本当に愛されていると実感できる」というのである。

 その後,両親が再び同居するようになったため,バーナードは実父母との3人ぐらしに戻った。彼は4歳の時に保育園へ再入所した。バーナードは優れた記憶力を持ち,保育園の全園児の名前を覚えて,誰か欠席した児童がいると先生よりも早くそれを指摘した。ただ集団活動は苦手で,ごく短時間しか参加できなかった。家では近所の子供達が彼を「おかしな子(crazy kid)」とからかって遊んでくれないので,はじめは自宅で独りでいることが多かったけれども,後には子供たちをクッキーで買収して,ある程度仲良くやれるようになったという。

 バーナードの父親は20歳の息子について次のように書いている。
 「バーナードは19歳で高校を卒業し,一般の短大に進みましたが,大学生活は大変でした。もともと学業成績は人並みで,勉強熱心なタイプではないため,シンプルで平凡な進路を目指したものの,大学でうまくいかずに2年間を空費しました。高卒後最初の1年間は「進歩的な」短大で寮生活を試みたのですが,そこは実際は「ヒッピーのたまり場」のようなところで,彼は勉強に身が入りませんでした。ちょうどその頃実母が死去したため,バーナードは実家に帰り,もう大学へは戻りたくないと言い出しました。その後,幼いころ本人の世話をしてくれた父方のおばが夫を亡くして本人・父親と同居するようになり,バーナードは元気を回復しました」

 バーナードの父親は1968年(本人19歳時)に再婚した。バーナードは新しく来た継母と仲良くつきあい,事実上,精神科的な治療は不要になった。

 父親によればバーナードは「恥ずかしがり屋で引っ込み思案ですが,それが彼の気質のようです。一度女の子をデートに誘ったものの,まったく積極的に振る舞えませんでした。バーナードは衣服には無頓着で(hates clothes),自動車を運転し,プレッシャーさえかけられなければ何でも一生懸命やります。私(父親)のドラッグストアを手伝っていて,接客ではなく商品補充の仕事をしています。バーナードの最大の関心事は市街電車博物館で,そこのクラブの会員になっており,毎週日曜日には軌道をひいたり,車体の塗装をしたりしています。クラブの他の会員と旅行にいくこともあります。以前は歴史に熱中していました。今は国際政治に興味があり,新聞をよく読んでいます」。

2016年12月4日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル13(L.カナーの成功例07)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第7例を紹介します。

症例7:ウォルター・P

 ウォルター・Pは1944年6月16日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1952年7月8日(8歳時)。出生時から3歳半頃までは正常にみえたが,その後,母親から言語発達の異常に気づかれた。すなわち彼は異様なほど静かになり(ただぼんやりと周囲を見回しながら長時間じっと座っていた),やがてまったく言葉を発しなくなった。コマなどのおもちゃに対して並外れた執着を示し,それらの物がいつもの場所に置かれていないと落ち着かなかった。その反面,周囲の人間にはほとんど興味を示さず,自分の名前を呼ばれてもなかなか反応しなかったという。

 ウォルターの両親は社交的で,社会適応に問題はなかった。父親は2年間大学教育を受け,アメリカ合衆国連邦政府で条例関係の部署(ordinance engineer)で働いていた。息子(ウォルター)に関しては母親よりも詳細で正確な情報を教えてくれたという。ウォルターの母親も2年間大学に通い,銀行で働いて,息子の治療・援助に必要なお金を稼いでいた。父親も母親も自分たちの夫婦仲にはまったく問題はないと力説した。ウォルターには3歳年上の兄がいたが,この兄には特に問題はなかった。

 ウォルターは正期産だったが,生後3週間で幽門狭窄症(胃の出口が狭くなっていること-訳注)を発症し,手術を受けた。術後の経過は順調で,授乳には問題はなかった。生後2歳半頃からしゃべり始め,3歳までには排便・排尿のコントロールができ,この頃には何の異常も認められなかったという。

 ジョンズ・ホプキンス病院では,ウォルターは外見は魅力的だが,反応ぶりは不自然で,機械仕掛けの人形のようだった。病院スタッフにはほとんど注意関心を向けることなく,ぼんやりと窓の外をながめて,最低限の質問にだけ答えていた。セガン・フォーム・ボード検査(Seguin formboard:型板を同じ形態の穴に入れる課題)ではすべてのピースをすばやく正しい穴に入れることができた。「あなたのお名前は?」「あなたは何歳ですか?」「椅子に座って下さい」といった言葉には反応したが,それ以外の質問・指示には協力できず,言葉を使った検査は施行不能であった。ウォルターの行動は全体に繰り返しが多く,強迫的で,積極性に欠ける印象だった。

 ウォルターは9歳になっても依然として強迫的であり,ほとんど言葉を話さなかったが,「保育園(play school)」でそれなりの進歩をみせ,いくつかの単語をまねたり書いたりできるようになった。この時期には何か欠けたり壊れたりしたものを見ると,それを完全に破壊することにこだわっていたという。

 ウォルターが10歳の時,母親は「あの子はとても進歩しています」と語った。彼は知的障害児のための学校に通い,(英語を)書くことと,簡単な算数を勉強していた。彼は楽しそうにやっていたが,(英語を)読むのは苦手だった。他の子供達と遊んだり話したりする能力は進歩しており,自分の言いたいことはいえたので,電話で簡単なメッセージを伝えることもできた。ただ行動は強迫的で,皮膚が赤くなるまで自分の顎を叩いたり,繰り返し目をこすったりといった儀式的行為がみられた。母親は息子のことを,外出させても問題を起こさない,「かわいい良い子」だとみていたらしい。

 ウォルターに対してはその後,自宅近くの精神科クリニックでフォローアップが受けられるよう手配された。

 1971年(27歳時)にウォルターの母親は我々に次のような手紙を送ってくれた。
 「ウォルターは1956年(12歳時)から1962年(18歳時)の間,障害を持つ子供のための寄宿舎つきの学校に入り,週末ごとに寮から自宅へ帰っていました。その学校を卒業した後は,父親が亡くなったので,現在まで私(母親)と2人暮らしです。ウォルターは2年間別の学校に通った後,少しのあいだ保護的就労(sheltered workshop)で働きました。1968年(24歳時)の6月からは小さなレストランで時給1.25ドルの皿洗いと給仕助手の仕事をしています。彼はその仕事を楽しんでおり,雇用主には好かれていて,仕事を休んだことは一度もありません。ウォルターはハンサムな若者で,自室の掃除など日常生活は完全に自立しており,いつも身ぎれいにしています。周囲を心配させるような行動はありません。いつも私の家事を手伝ってくれ,自分で庭の手入れをしています。庭仕事ではエンジン付きの芝刈り機を上手に使い,メンテナンスも自分でやります。ウォルターの問題はコミュニケーションです。その気になればかなりはっきりと表現できるのですが,自発的な会話がないのです。自分の言いたいことは言えますし,かかってきた電話の応対もでき,その場で私が尋ねれば誰からの電話かを教えてくれます。ただ私の留守中に電話があると,私が帰宅後いちいち聞かないかぎり,電話がかかってきたことも教えてくれないのです」

2016年11月26日土曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル12(L.カナーの成功例06)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第6例を紹介します。

症例6:ジョージ・W

ジョージ・Wは1944年2月27日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1951年1月11日(6歳時)。母親の訴えは以下の通りであった。

 ジョージは生後18ヶ月からはっきりと話し,難しい言葉や文章を使えます。ただ話は一方的で,まったく会話になりません。「イエス」「ノー」で答えられる簡単な質問にも答えてくれないのです。ジョージは完全に自分独りの世界で生きています。赤ん坊の時から他の子のように笑うことはありませんでした。2歳の時にはアルファベットや数字を理解していましたが,これまで自分のことを一人称(I:私)で呼んだことはありません。

 ジョージは出産予定日から5週間過ぎて生まれた。出生時体重は3629g。両親は彼を厳格なスケジュールに従って育て,眠っている赤ん坊を起こして授乳することもしばしばだった。ジョージは13ヶ月で初めて言葉を話し,18ヶ月で独りで歩けるようになった。排便コントロールは18ヶ月で達成されたが,夜尿は6歳まで認められたという。粗大な運動発達は遅かったものの,安全ピンを止める外す,また歯磨き粉のチューブのふたを取り替えるなど,手先の微細な運動(協調)能力は良好であった。

 ジョージの父親は南米系の土木技師で,ジョージが生後6ヶ月の時に軍隊に入り,約2年間家を離れていた。2年ぶりに自宅へ戻った時,父親は息子とうまくかかわれず,ジョージの障害については何か身体的な問題(分泌腺関係)があるのではないかと疑っていたようだ。

 ジョージの母親は3年間大学で勉強した経験をもち,『知的探求』を重視していた。彼女は息子に非常に早い時期から文字や数字を教えた。ジョージの診療録は,この母親とその父親(ジョージの祖父)との葛藤に関する記述であふれている。彼女は自分の父親が不機嫌になるのを恐れる反面,その支配的言動に腹を立てていた。ジョージの母親は息子のあらゆる問題に関して自分を責めると同時に,何か奇跡的な出来事によって息子がたちまち完治するのではないかと,非現実的な期待を抱いていた。彼女はジョージが4歳の頃から酒に溺れはじめ,数年後にはアルコール依存症自助グループ(AA)に参加するようになった。

 ジョージは幼稚園でうまく適応できなかったためにジョンズ・ホプキンス病院へ紹介されたが,病院では担当セラピストとかろうじて人間関係を築くことができた。彼は聞いたことをオウム返しに話し,病院のスピーカーから放送される(呼び出しの)人名を繰り返して喋った。自分独自の言葉を作ることが多く,交通信号やエレベーターに夢中になっていた。

 ジョージは9歳時に気分障害を持つ児童のための施設に入所し,そこで6年間を過ごした。施設では様々なテーマへのこだわりが認められ,配管や照明のような機械装置,旅行,地図作成,身体的健康(バイ菌恐怖のために一日に何度も手を洗う)などに熱中したという。これらのこだわりはその後徐々におさまって,かわりに集団活動への興味が生じてきた。ただこの集団への興味はときどき減退することがあり,これは多くの場合職員の異動交代と関係していた。学校の宿題はおおむね良くできていたらしい。

 ジョージは15歳の時に施設から自宅へ戻り,公立学校に「年上の6年生」として編入した。ここでは周囲が「強いプレッシャーをかけずに適度に励ます」ことで,大きな問題なく過ごせた。担任教師は次のように述べている。
「ジョージは少し幼い6年生と同じくらいのレベルで,決められた規則には従っていました。ヴァイオリンを上手に演奏し,クラスメートとの交際を楽しんでいたようです。冗談を好み,思ったより人なつっこく見えました。また詩や言葉遊びが大好きでした」

 ジョージは母親の意向で11年生(高校2年生)の時に学校をやめ,音楽に専念することになった。彼はいくつものジュニアオーケストラでヴァイオリンを演奏しており,有名な音楽学校で授業を受けた。その後ジョージは高校卒業の資格を取得しようと考え,近年はもっぱら通信教育で勉強している。特に外国語に興味があり,スペイン語の授業を受け,フランス語を独習し,イタリア語について「実践的知識」を身につけた。現在は図書館で補助職員として働き,また郵送係として主に国外向けの本の発送を担当している。

 ジョージは今,両親と住んでいる。家の中の雑用を助けているが(母親は我々への手紙で「息子は頼りになる」と書いている),友人はおらず,「女の子は自分に興味を持ってくれない」という。ジョージは今,人を喜ばせることに過度に熱中しており,母親によれば「ジョージはリラックスするのが苦手で,いつも失敗を恐れています」とのことである。