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2016年8月27日土曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル07(L.カナーの成功例01)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第1例を紹介します。

症例1:トーマス・G

トーマス・Gは1936年9月11日生まれ。
ジョンズ・ホプキンス病院には母方祖母につれられて,1943年4月19日に初診。
初診時記録は次の通り。

診察時,彼はひどいお馬鹿さんのように振る舞った。
彼はまず靴にキスをし,次に腕時計,そして置き時計にも次々とキスをした。
彼は年齢の割に驚くほど頭が良く,いわゆる悪童タイプではなくて,女の子よりも静かなくらいだった。
彼は他の子供と遊ぼうとはせず,自宅の近くにある学校が終わるとすぐに帰宅し,ドアを閉めて家に閉じこもった。

トーマスは満期産で出生。母親は当時17歳だったが,妊娠中に「腎臓の問題」を抱えていた。出産は正常で,出生時体重は3175g。生後6ヶ月で座り,初歩は18ヶ月。2歳ではしかにかかり,3歳時に扁桃摘出術とアデノイド切除術(T&A)を受けた。他に重大な身体疾患の既往歴はない。

トーマスの父親はイタリア系の家具職人で,1941年に結核療養所で死去した時には31歳であった。トーマスの父方祖父は市の楽団の指揮者。父の叔父は作曲家だったという。

トーマスの両親が一緒に住んでいたのは,1936年の1月から12月の間だけだった。母親はトーマスの世話をほとんどしなかった。母親は(実際には存在しない)トーマスの結核が感染することを恐れて母子の接触を最小限にし,しばしば一人で長時間外出した。その間トーマスの面倒をみたのは,ニューヨークで「生活保護(on relief)」を受けていた父方祖母である。

トーマスが4歳近くになって,結局母方祖母が彼の世話をすることになった。その時トーマスはまだトイレットトレーニングができておらず,言葉も出ない状態であった。この母方祖母の養育を受けてトーマスは急速に発達し,小学校入学の前には再婚していた実母と同居することになった。

トーマスは小学校に入学したものの,やがて「奇妙な行動」でクラスになじめないことが判明した。教師の指示に従わず,他の子供の靴にキスする強迫行為が止まらなかったのである。トーマスは母方祖母のもとに戻されたが,この祖母が孫の異常を心配して,ジョンズ・ホプキンス病院初診の運びとなった。

トーマスは身体的には全く健康であった。質問にはきちんと答えることもあったが,時にじっと前方を見つめたままだったり,クスクス笑ったりすることもあった。彼は腕時計に強いこだわりを持ち,自分で独特の名前をつけていた。「僕はマキマキ時計(dishnish:腕時計をさす造語)で遊ぶのが大好きなんだ。チクタク動くのを見るとワクワクして,ハジカシク(embarranness)なるんだ」

トーマスは2人の祖母を年齢で呼んだ。「一人は64歳で,一人は55歳だ。僕は55歳のほうが好きだ」また彼は数字全般にこだわりがあり,診察室に辞書やシアーズ・ローバック(アメリカの通信販売会社)のカタログが置いてあると,必ずそのページ数を確認した。

トーマスはジョンズ・ホプキンス病院のお気に入りのソーシャルワーカーのところへ数年間通った。数字や腕時計へのこだわりは強かったが,熱中する対象は年とともに変化し,計量カップ,地図,そして天文学へと移っていった。

トーマスはデッサンが好きで,性格は非常にまじめ。悲しい絵や物語を見ても決して泣いたり取り乱したりしなかった。質問などへの反応はやや遅く,学校での出来事を尋ねられると,「ちょっと待って。まず頭を整理するから」ということが多かった。他の子供達と一緒にいる時には,自らリーダーシップをとろうとはしなかったものの,ゲームなど集団活動には参加していた。ピアノのレッスンを受けて奨学金を獲得し,いつも演奏することを楽しんだ。

12歳の時,トーマスは小学校6年生でクラス最優秀の生徒であった。学校側は彼が「適応した」と考えていたが,実際には周囲から「変なやつ(queer fellow)」と思われていた。トーマスの学業成績は素晴らしかった。トーマスは体育委員,芸術クラブ,新聞委員をそれぞれ1学期ずつつとめ,放課後には図書室で司書を手伝った。フォークダンスの発表では中心的役割も果たしている。

教師は彼の優れた学業成績を高く評価し,「作業は遅いが,提出物の内容は素晴らしい」とコメントした。クラスでは他の子供達から受け入れられているともいえなかったが,そうかといって完全に拒絶されているわけでもなかった。トーマスはいじめやからかいの対象になることが多かったけれど,彼自身はそれを無視するのが一番良い方策だと考えていた。彼は「やり返せば状況はよけい悪くなる」ということを経験から学んでいたのである。

高校を卒業すると,トーマスは奨学金を得てジョンズ・ホプキンス大学に入学した。ただこの奨学金は大学での成績不振から,2年で打ち切りになっている。彼はその後軍隊に招集されたが,入隊から5ヶ月後,反応の鈍さを理由に医学的検査を受けることになった。病院で検査を受けていた時,トーマスは突然てんかん大発作を起こし,これを理由に軍隊は除隊になった。

トーマスは大学の夜間部に戻り,何とか卒業してカレッジの学位を得た。抗てんかん薬の服用を怠るとてんかん発作が再発することが多かった。

トーマスは天文学と音楽に興味があり,これは彼を個人的に満足させるだけでなく,社会参加にも役立った。彼はボーイスカウトのリーダーをつとめ,そこで頼まれて天文学を教えたり,ピアノを演奏したりした。水泳クラブ,陸上クラブに所属し,科学や天文学の本を熱心に読んだが,小説などのフィクションには興味を示さなかった。

トーマスはいくつかの仕事についた。政府機関での書類管理の仕事を5年間勤めた後,軍の検査センターで電気・科学関係の仕事をした。

1969年の時点でトーマスの祖母は83歳であり,老人ホームに入っている。トーマス自身は抗てんかん薬の服薬中断からてんかん発作が再発し,これが原因で失職した。しかし彼は機敏に立ち回り,とりあえずの収入源として慈善団体での仕事を確保した。トーマスは数年前にマイホームを購入し,自分の車も持っている。自宅にいる時は趣味のピアノを演奏したり,テープレコーダーで音楽を聴いたりして楽しんでいる。彼は異性への興味・関心はなく「女の子にはお金がかかりすぎる」という。

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