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2016年10月1日土曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル09(L.カナーの成功例03)


ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第3例を紹介します。

症例3:エドワード・F

エドワード・Fは1939年10月11日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1943年11月15日(4歳時)。母親によるとエドワードは発達に遅れがあり,とても引っ込み思案だという。

 エドワードは自分一人の世界に入っているのが好きだった。家族の他のメンバーを認識するのに生まれてから約3年かかっている。彼の行動には高度なパターン化が認められた。例えば電柱を見ると必ずそれに触りたがり,次に棒を電柱に立てかけて,その周囲を繰り返し回って歩く。言語能力には偏りがみられ,理解が苦手で,話すのは比較的得意だった。

 初診時エドワードは2人兄弟の次男だったが,その後さらに2人の弟が生まれた。父親は「心配症」の弁護士で,エドワードが生まれた時34歳であった。彼はこの年「仕事に関する不安,失敗するのではないかという恐怖,夜間のパニック発作」のために精神科を受診している。エドワードの父親は「政治,世界の出来事,ハイキング,登山」に熱中していた。エドワードの母親は,夫と同じく大学卒で,夫より2歳年下。26歳で結婚するまでソーシャルワーカーとして働いていた。性格は「人間に興味があり,バランスのとれた性格。ただ論理的すぎるかもしれない。物事の判断にあたっては必ず4つから5つの理由を列挙する傾向がある」。エドワードの兄は健康で社会適応は良好であった。

 エドワードの外見はほっそりして,魅力的であり,いきいきとした黒い瞳はとても賢そうに見えた。診察室に入るとすぐにクレヨンと紙を見つけて,それに没頭した。母親にいわれてエドワードは自分が持ってきた本を読んでくれたが,そのやり方は,知っている言い回しを何度も繰り返し,それに自分で作った新しい言葉を散りばめて使うというものであった。その後,エドワードは鉛筆でクリニックの秘書の脚を突こうとしたが,かわされると今度は紙袋を攻撃した。彼は自分よりずっと年下の子供向けのゲームに熱中していた。

 エドワードは予定日より約3週間早く生まれた。出生時体重は5ポンド14オンス(約2665g)で,「手の爪が完全には発達していなかった」という。両親は彼の誕生を喜んだが,赤ん坊は「いつも元気がなかった(never very active)」。母乳の飲み方は弱々しく,周囲に関心を示さず,全体に無気力であった。生後4ヶ月で次のように普通の子供との違いが明らかになってきた。「抱き上げられると,だらりと弛緩する。出生時からずっと『生きよう』とする気力が感じられない」。

 エドワードは生後7ヶ月で座り,始歩は20ヶ月。「歩き始めた後でもハイハイをしたがる。足は偏平足で,矯正用の靴を履き,酔っ払った水夫のような歩き方で歩く」。手足の細かい運動は比較的得意だが,体幹部の大きな動きは苦手であった。言語能力の発達は遅く,しかも通常とは違うパターンであり,ようやく話し始めた内容もオウム返しが主体だった。排便コントロールは比較的早期に達成され,昼間の尿失禁は3歳までになくなった。

 エドワードがまだ幼いうちから母親が仕事を再開したため,母方祖母と家政婦がエドワードの世話をすることになった。この2人はエドワードに辛抱強く接したという。エドワードが4歳でジョンズ・ホプキンス病院を初診した時,母親は息子のことを心配して仕事を辞めており,その後エドワードは母親への愛着を形成できるようになった。

 5歳の時,エドワードは幼児自閉症の研究施設であるヘンリー・フィップス精神科クリニックに数ヶ月間入院した。エドワードは当時自分が入院していることに気づいていないようにみえたが,後に「他の子供が怖かった」とイヤな思い出を語った。

 6歳の時,エドワードは幼稚園に入った。そこでは理解ある先生が,エドワードのその時の状態によって,集団活動に参加するか,独りで遊ぶかを柔軟に判断してくれた。母親は息子の進歩を喜んで,次のように言った。「あの子はしゃべり,遊び,他の子達と同じように見えました。ただ社会性には問題があり,興味関心の範囲は狭く,学習の速さやパターンは普通とは違っていましたけれど」。全体にエドワードは「発達は明らかに遅れているが,一緒にいて楽しい子供」というレベルに達していた。

 7歳の時,エドワードは小学校の特殊学級に入学し,そこで2年間を過ごした。担任の教師は専門的訓練は受けていなかったが,共感的で,熱心であり,家族によればエドワードの成長に決定的な役割を果たした。最初はなかなか言うことを聞かなかったけれど,エドワードは2年間で大きく成長した。罰として1日間の自宅謹慎を命じられた時,エドワードは「要領をつかんだ(got the point)」らしい。2年間を特殊学級で過ごした後,エドワードは校長の許可を得て,普通学級の2年生に編入することになった。そこで1年間非常によくやったので,翌年エドワードは飛び級で4年生に進級した。その後エドワードは社会性の問題を抱えながらも,学業面では他の子供たちに比べてまったく遜色なく過ごすことができた。ただボーイスカウトで適応することは難しかった。

 エドワードはいつも音楽が大好きだった。12歳の時,音楽のレッスンを受けて作曲の素質を見出されたが,高校生活ではそんな余裕はないだろうと自ら音楽の道をあきらめ,両親をがっかりさせた。この頃,強迫傾向はあまり目立たなくなっていたものの,強迫観念(fixed ideas)は残っていた。

 エドワードが13歳でジョンズ・ホプキンス病院を再診した時,彼は公立学校の8年生(日本の中学2年生相当)で,学業成績は中くらいだった。ただ対人交流には大きな困難があり,自己表現のやり方は奇異,自分をとりまく社会的状況を正しく理解するのは非常に苦手だった。

 1970年に母親はジョンズ・ホプキンス病院へ手紙をくれた(エドワード31歳時)。それによるとエドワードは周囲の予想よりもずっとうまくやっているという。エドワードは19歳で高校を卒業し,大学への進学を希望した。母親はおそらく他の家族と同じようにしたいという思いがこの進学希望につながったのだろうと考えていた。種々の(心理)検査が行われ,言語性能力(verbal)は優れているが,動作性能力(performance)は普通という結果が得られた。エドワードは大学入試に挑戦して州立大学に入学し,園芸学を専攻した。しかし化学の成績が悪かったため,歴史学専攻に切り替え,5年間かかって学士号(B.A.)を取得した。大学在学中,エドワードは学生寮に入っていたが,長続きする友達は一人もできなかったという。

 大学卒業後,エドワードは園芸関係のよい仕事を得たものの,うまく適応できず,退職を余儀なくされた。この出来事は彼を非常にがっかりさせた。その後1970年までの数年間,エドワードは政府関係の農業研究所で肉体労働に従事している。彼はこの仕事があまり好きではなく,もっと「教養ある人達」と交際したいと望んでいる。エドワードは自分のアパートを所有し,余暇にはステレオセット(Hi-fi set)で音楽を聴いて楽しむ。お金を貯めて車を買うこともできた。ハイキングクラブに所属しており,時にはリーダーとして徒歩旅行を企画引率する。植物や野生生物に関する知識で周囲から尊敬され,最近では女性とのデートもはじめた。時間のあるときは週末に実家を訪れ,家族からは大いに歓迎されている。

 母親は手紙にこう書いている。「私たちがエドワードのために,エドワードと一緒に,彼のあらゆる人生の段階で工夫しなければならなかった全てのことを記録したら,何冊もの本ができ上がることでしょう。でも今やエドワードは経済面でも生活面でも完全に自立しています。私は彼が自分の人生を楽しんでくれていると確信しています」

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