病院の中庭です。春には一面タンポポの花が咲きます。当医局が「お花畑」状態という意味ではありません。念のため。

2016年9月11日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル08(L.カナーの成功例02)


ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第2例を紹介します。
この人は12例中,唯一の女性です。

症例2:サリー・S

サリー・Sは1937年5月6日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院を1943年3月8日(5歳時)に初診した。初診時には典型的な代名詞の逆転がみられた(pronominal reversal:自分のことを「私[I]」ではなく「彼女[she]」あるいは「サリー」と呼ぶ)。カルテには次のように記されている。

サリーは体格が良く,魅力的で,いかにも賢そうに見えた。身体診察では特記すべき異常は認められなかった。彼女の最大の問題は,周囲の人や状況とうまく関われないところにある。孤立と強迫傾向が明らかで,記憶力は驚異的,またパズルを解く能力は年齢平均よりもかなり高かった。

サリーの両親は2人とも大学卒である。父親は広告のコピーライターで,妻(サリーの母親)によれば「とても家族思い。特別暖かみのある人柄ではないが,みんなから好かれる。私とは違って人の世話を焼くタイプではない」。サリーの母親は図書館司書として働き,自らを「過激な民主党員。とてもせっかちで,橋に到着する前にそれを渡ろうとするタイプ」と評した。
サリーの父方祖父は弁護士として大いに成功したものの,女性とアルコールの問題があり,自殺している。父方祖母は夫の死後,老人ホームの経営者となった。サリーの母方祖父は外科医で,癌で死去。母方祖母は一時期学校の教師として働いていた。
サリーには3歳年上の兄がいるが,彼は反抗的な性格であった。

サリーは満期産で出生。健康状態はきわめて良好だった。生後10ヶ月で起立したものの,始歩は22ヶ月。1歳にならないうちから強迫傾向とかんしゃくが明らかになってきた。つまり家族がいつもの椅子に座らなかったり,毎日の散歩の手順が変わったり,トレーの上の食器の位置が変わったり,自宅の庭に出るのに決まったドアを通れなかったりすると,必ず大きな叫び声を上げたのである。また彼女は人体機能に関係するあらゆる事柄に対して強迫的な興味関心を示した。

サリーは地元の学校に通い,不登校はなかった。小学校6年生(13歳)の時,完全版WISC知能検査を受けて,全IQ110(言語性IQ119,動作性IQ98)と平均以上の結果であった。学業成績は,英語の綴りとフランス語がA,地理と算数と聖書史と図工がB,そして英語読解がCだった。学校の心理カウンセラー(psychologist)は「周囲との関係がうまく作れず,適応に困難がある」というコメントを残している。

サリーは1953年12月6日にジョンズ・ホプキンス病院を再診した(16歳)。母親は近況について「10年前よりも集団への適応という面で進歩しています。今は高校2年生(eleventh grade)ですが,学校の勉強は記憶力頼みで,推理・思考は苦手です」と語った。サリー自身は自分のことを「ガリ勉の詰め込み屋(plugger)」と呼び,良い成績をとるために自分自身にかなりプレッシャーをかけていると認めた。「去年までの学校の勉強は暗記中心だったから,私の得意な記憶力が役に立ったけど,今年からは物事の理由を考えるように求められていて,大変です」
サリーは大学への進学を希望していたが,「望みが高すぎるかもしれません」とも言っていた。同級生との関係については「女の子達はとても親切で,私に良くしてくれます。でもいくつかの点で私には他の子達と違うところがあるんです。私は同年代の女の子達のようには男の子に関心を持てないんです」と語った。
また彼女は酒と非行の問題で学校を退学させられた兄のことを心配していた。ガソリンスタンドで働く兄をサリーは「思春期のひどい被害者」と呼び,「精神科的援助が必要です」と言った。

高校を卒業するとサリーは女子大に入学し,平均成績「B」で大学を卒業した。大卒後,彼女は看護師になりたいと考え,規則と秩序にのっとった生活を望んだが,病院実習でつまずいた。複数の診療科で実習を行う中で,新しい環境にうまく適応できないことが判明したのだ。
「多分私は物事をキチンとやろうとして,神経質になりすぎていたんだと思います」
産科病棟での実習中,サリーは学部長から進路について考えなおすように勧められた。彼女は通常の授乳時間は20分間と教えられると,授乳開始からきっかり20分で母子のいる病室へ入っていき,一言もいわずに母親から赤ん坊をとりあげた。このため母親たちから多くの苦情が寄せられたのである。
サリーはすぐに学部長の助言を受け入れた。臨床検査へと志望を変更し,その後は検査技師として立派に勤めを果たした。
1968年にサリー(31歳)と家族はシカゴに転居した。彼女はそこで病院の検査技師の仕事を見つけ,職場では「化学に関する素晴らしい能力」によって高く評価された。

1970年(33歳)に彼女を診察した精神科医は次のように記録している。
「サリーは長年にわたって自分の社会性を進歩させようと苦闘してきた。現在ある男性と半年間交際しているが,実際のところ親密な人間関係というものに明らかな恐れを抱いている。彼女は周囲からの勧めもあり,自らの音楽への興味を利用して,教会の合唱団の中で自分の居場所を見つけた」

サリーの父親は1969年に自殺した。兄はアルコール依存症にかかっている。サリーは熟練した臨床検査技師として熱心に働き,友人や知人との関係を維持するよう努力している。サリーは母親と互いに連絡をとりあっており,母子関係は良好である。

[論文の考察から補足]
サリーは23歳の時に真剣に質問した。「もし私が万が一誰かのことを好きになったら,私は何をしたらいいんですか?」彼女はそれまで恋愛感情というものを抱いたことがなかったのだ。またサリーは「私は同年代の女の子のようには男の子に興味を持てません」とも言った。30歳になって彼女はある男性と数ヶ月間交際したが,「親密になることを恐れた」ためにその交際は長続きしなかった。