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2016年11月26日土曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル12(L.カナーの成功例06)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第6例を紹介します。

症例6:ジョージ・W

ジョージ・Wは1944年2月27日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1951年1月11日(6歳時)。母親の訴えは以下の通りであった。

 ジョージは生後18ヶ月からはっきりと話し,難しい言葉や文章を使えます。ただ話は一方的で,まったく会話になりません。「イエス」「ノー」で答えられる簡単な質問にも答えてくれないのです。ジョージは完全に自分独りの世界で生きています。赤ん坊の時から他の子のように笑うことはありませんでした。2歳の時にはアルファベットや数字を理解していましたが,これまで自分のことを一人称(I:私)で呼んだことはありません。

 ジョージは出産予定日から5週間過ぎて生まれた。出生時体重は3629g。両親は彼を厳格なスケジュールに従って育て,眠っている赤ん坊を起こして授乳することもしばしばだった。ジョージは13ヶ月で初めて言葉を話し,18ヶ月で独りで歩けるようになった。排便コントロールは18ヶ月で達成されたが,夜尿は6歳まで認められたという。粗大な運動発達は遅かったものの,安全ピンを止める外す,また歯磨き粉のチューブのふたを取り替えるなど,手先の微細な運動(協調)能力は良好であった。

 ジョージの父親は南米系の土木技師で,ジョージが生後6ヶ月の時に軍隊に入り,約2年間家を離れていた。2年ぶりに自宅へ戻った時,父親は息子とうまくかかわれず,ジョージの障害については何か身体的な問題(分泌腺関係)があるのではないかと疑っていたようだ。

 ジョージの母親は3年間大学で勉強した経験をもち,『知的探求』を重視していた。彼女は息子に非常に早い時期から文字や数字を教えた。ジョージの診療録は,この母親とその父親(ジョージの祖父)との葛藤に関する記述であふれている。彼女は自分の父親が不機嫌になるのを恐れる反面,その支配的言動に腹を立てていた。ジョージの母親は息子のあらゆる問題に関して自分を責めると同時に,何か奇跡的な出来事によって息子がたちまち完治するのではないかと,非現実的な期待を抱いていた。彼女はジョージが4歳の頃から酒に溺れはじめ,数年後にはアルコール依存症自助グループ(AA)に参加するようになった。

 ジョージは幼稚園でうまく適応できなかったためにジョンズ・ホプキンス病院へ紹介されたが,病院では担当セラピストとかろうじて人間関係を築くことができた。彼は聞いたことをオウム返しに話し,病院のスピーカーから放送される(呼び出しの)人名を繰り返して喋った。自分独自の言葉を作ることが多く,交通信号やエレベーターに夢中になっていた。

 ジョージは9歳時に気分障害を持つ児童のための施設に入所し,そこで6年間を過ごした。施設では様々なテーマへのこだわりが認められ,配管や照明のような機械装置,旅行,地図作成,身体的健康(バイ菌恐怖のために一日に何度も手を洗う)などに熱中したという。これらのこだわりはその後徐々におさまって,かわりに集団活動への興味が生じてきた。ただこの集団への興味はときどき減退することがあり,これは多くの場合職員の異動交代と関係していた。学校の宿題はおおむね良くできていたらしい。

 ジョージは15歳の時に施設から自宅へ戻り,公立学校に「年上の6年生」として編入した。ここでは周囲が「強いプレッシャーをかけずに適度に励ます」ことで,大きな問題なく過ごせた。担任教師は次のように述べている。
「ジョージは少し幼い6年生と同じくらいのレベルで,決められた規則には従っていました。ヴァイオリンを上手に演奏し,クラスメートとの交際を楽しんでいたようです。冗談を好み,思ったより人なつっこく見えました。また詩や言葉遊びが大好きでした」

 ジョージは母親の意向で11年生(高校2年生)の時に学校をやめ,音楽に専念することになった。彼はいくつものジュニアオーケストラでヴァイオリンを演奏しており,有名な音楽学校で授業を受けた。その後ジョージは高校卒業の資格を取得しようと考え,近年はもっぱら通信教育で勉強している。特に外国語に興味があり,スペイン語の授業を受け,フランス語を独習し,イタリア語について「実践的知識」を身につけた。現在は図書館で補助職員として働き,また郵送係として主に国外向けの本の発送を担当している。

 ジョージは今,両親と住んでいる。家の中の雑用を助けているが(母親は我々への手紙で「息子は頼りになる」と書いている),友人はおらず,「女の子は自分に興味を持ってくれない」という。ジョージは今,人を喜ばせることに過度に熱中しており,母親によれば「ジョージはリラックスするのが苦手で,いつも失敗を恐れています」とのことである。

2016年11月18日金曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル11(L.カナーの成功例05)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第5例を紹介します。

症例5:ヘンリー・C

ヘンリー・Cは1943年12月13日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1947年5月26日(3歳時)。

 ヘンリーは3歳になってもまったく会話ができなかったため,両親が心配してジョンズ・ホプキンス病院を受診させた。ヘンリーの発語能力は,うながされてようやくいくつかの単語を言える程度であったが,その一方でアルファベットのすべての文字と,句読点を正しく理解していた。またかなりの数のメロディーをそらで歌うことができ,ブロック遊びの技術は相当高かった。セガン・フォーム・ボード検査(Seguin formboard:型板を同じ形態の穴に入れる課題)では年齢相応の能力が示された。

 ヘンリーの両親はともに大学卒である。父親はヘンリーが6ヶ月の時からずっと軍務で自宅を離れており,1947年の4月にようやく帰還した。父親は自らのことを完全主義者「整理魔(bugs on keeping things in order)」と評した。ヘンリーの母親は,若い頃からてんかん発作と母親(ヘンリーの祖母)による強迫的支配に苦しみ,ヘンリーが生まれてからは自分が発作のために抱いた赤ん坊を落としてしまうのではないかと非常に緊張していた。実際母親は一度だけヘンリーを発作時に落としてしまったことがあり,赤ん坊に怪我はなかったものの,不安はさらに強くなった。このため母親はヘンリーを独りにしておくことが多く,また息子(ヘンリー)は独りでいるのが好きなのだと考えていた。

 ヘンリーは6歳の誕生日に里親に引き取られ,そこで目覚ましい進歩を遂げた。「ヘンリーはとても上手に言葉を使えるようになりました(1949年3月)」ときどき代名詞の逆転(reversing pronouns:自分のことを「私[I]」ではなく「彼[he]」あるいは「ヘンリー」と呼ぶ)があったものの,構文は正確で,1950年(7歳時)には通常の幼稚園で「問題なく」過ごせたという。「ヘンリーは楽しそうで,少しずつ他の子供達と関わろうとしています。ヘンリーの実母と里親は良い関係にありますが,ヘンリーの父親は『まるで氷山のように冷たく孤立』しており,実父母は離婚を検討中です」

 ヘンリーは1952年(9歳時)に改名した。最初は里親の名前をもらうつもりだったが,結局ファーストネームはそのまま(ヘンリー)にして,ミドルネームを守護聖人(patron saint)から拝借し,ラストネームは映画俳優からもらった。後に彼はこれを正式な名前として法的に登録した。

 1954年(11歳時)にジョンズ・ホプキンス病院を受診した時,ヘンリーは個人的興味や身の回りの出来事について表情豊かに語ったが,周りからもっと詳しく話すように促されると困惑していた。学校の成績は進級ギリギリだったけれども,学校側は彼の問題を理解しており,予定通り5年生に進むことになっていた。自宅では「死」と「殺人」に熱中して,それについて熱心に話し,絵を描いていた。

 1956年(13歳時)の8月にヘンリーと養母がヘンリーの実母のアパートを訪問してみると,実母は自室で死亡していた(管理人がアパートの鍵を壊して部屋に入った)。検死官の解剖の結果は「自然死」(?)で,ヘンリーはその知らせを聞いて「少し泣いたが,気分を変えさせるのは難しくなかった」という。

 ヘンリーは学校では特に問題なく過ごしていたが,家ではお行儀が悪く,しつこかった。またその傾向は特に実父と会った後に顕著になったという。ヘンリーは自宅で暇があると物語を書いていたが,そのテーマは「ホラー関係,殺人関係,SF関係」であった。タイプライターを打てるようになると,「物語はより長くなり,より生々しくなり,血なまぐさくなり,そしてしばしば意味不明だった」という。

 1958年(15歳時)の秋にヘンリーは全寮制の学校に入学し,そこの生活は彼の好みに合ったらしい。週末は養父母(里親)宅で過ごすことが多く,実父から一緒に過ごすよう誘われても断るようになった。

 我々はヘンリーのその後の経過をフォローするため,実父,養父母,そしてヘンリーの実母が遺したわずかなお金を管理していた後見人に手紙を送った。1971年10月4日(28歳時)にヘンリーの後見人は,当時住んでいたインドから次のような返事を送ってきた。

 「私がはじめてヘンリーに会ったのは彼が2〜3歳の時です。私は妻と彼の両親のアパートを訪れ,そこでトランプのブリッジをしました。その頃のヘンリーはまるで野生動物のようで,疲れて動けなくなるまで居間の中を落ち着きなく走り回っていました。次に会ったのは彼が15歳の時です。この時は非常に興味深い会話ができました。私はヘンリーが『正常になった』と感じ,また後に彼からもらった手紙からも,かなりよく適応していることがうかがわれました。私はヘンリーがそれ以来ほぼ自立して生活しているので驚いています」

 我々はヘンリーの住所を教えてもらい,近況を尋ねる手紙を送った。すると1972年(29歳時)の1月はじめに,ヘンリー自身から長い自叙伝風の手紙が送られてきた。残念ながらここではその手紙を一字一句紹介することはできないが,そのおおまかな内容は以下の通りである。

 ヘンリーは1962年6月29日(19歳6ヶ月時)に軍へ入隊した。基礎訓練を終えると,彼は情報部門に配属され,機密情報の利用許可を得て,1962年12月6日まで教練を受けた(その内容については高度機密に関係するため公表できないという)。1963年1月18日(20歳時)に名誉除隊した後,はじめはカリフォルニア州で,後にはペンシルバニア州で,合計6つの仕事についた。仕事の内容は一般事務員が多かったが,1972年の時点では「動画研究所の在庫管理責任者」をしており,「何度か大幅な昇給を獲得した」という。ヘンリーは何度かの転職をへて,「たぶん私は今ようやく,自分の能力に見合った仕事に落ち着いた気がします」と書いている。彼は手紙の中で自分の経験した6つの仕事について極めて詳細に記し,細かい日付,業務内容,上司の名前と電話番号,また離職の理由についても述べている。全体に「私は作業手順や勤務態度の問題で失職したことはこれまで一度もありません」という。

「関係者各位」と書かれたヘンリーの手紙は次のように始まっている。
 「私はこの履歴書を,私の生活,教育,仕事,経験についてはっきりした情報を知りたい,という人のために書きます。私は身長6フィート(183cm),体重145ポンド(65.8kg),髪は茶色,瞳の色は薄茶〜青色(hazel blue)です。私はまったく健康で,大きな病気やケガの経験はありません。自分の家を所有し,自動車を1台持っています。犯罪歴はなく,名誉除隊と徴兵免除の資格があります」

 他のところではこう書いている。
 「私は将来に関してはまったく心配していません。私は毎日をまるで人生最後の日であるかのように懸命に生きており,『明日なんて悪魔にくれてやれ(どうなってもよい)』という心境です。私は現在28歳で,独身です。何人かの女性が私の独身生活を終わらせようとしましたが,私は長時間束縛されること(結婚)には我慢できないようです。私はタバコも酒もやりません。ただギャンブルへの抑えがたい衝動があります(まったく弱点のない人なんていないでしょう)」

 ヘンリーの手紙は次のように終わっている。
 「私はカナー先生のことを一生忘れません。先生は私のためにたくさんの可能性の扉を開けてくれました。先生は私の中で消えかかっていた生命の炎を再び燃え上がらせてくれたのです。私は先生にどんなに感謝してもしきれません」