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2017年3月26日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル18(L.カナーの成功例12)

ブログ管理担当のまさぞうです。


今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,最後の第12例を紹介します。

本例も1943年にカナー先生が書いた
自閉症についての世界初の論文で報告された11症例のうちの1つです。

症例12:フレデリック・W

 フレデリック・クレイトン・「ウィッキー(Wikky)」・Wは,ジョンズ・ホプキンス病院を1942年5月29日に初診した。彼はその時,あと1週間で6歳になるところだった(1936年6月5日生まれ?)。母親は以下のように述べている。

 息子はいつも自分だけの世界に生きています。私はウィッキー(息子)が誰かの注意を引こうとして泣くのを見たことがありません。他の子供と一緒に遊ぶのが苦手で,去年までは周りの人たちを完全に無視して行動していました。約1年前から少しずつ周囲の人間を観察するようになりましたが,それでも自分以外の人間は邪魔者と感じる方が多かったようです。同じもの(同一性)へのこだわりはある程度あり,自宅の本棚の上に置いてある3冊の本の順番が変わるとそれが気に入らず,必ず自分の好きな順番に戻していました。2歳前には2語以上の文章を言えるようになりましたが,2〜3歳の頃は自分の話した言葉に自分でびっくりしているような様子がありました。ウィッキーが生まれて初めてしゃべった言葉の一つは「つなぎ服(overalls)」です。2歳頃から歌を歌えるようになり,その後,フランスの子守歌など20〜30曲の歌を覚えました。4歳の頃,私はウィッキーに何かものが欲しい時は,自分でとりに行く前に,誰かに言葉で頼むようにさせようとしました。しかし彼は私よりも頑固で,粘り強かったようです。ウィッキーは絶対に私の意図に従おうとはしませんでした。5歳の今では100以上の数まで数えられますし,数字を読むこともできます。ただその数字と,モノの数という概念は,彼の中では必ずしも結びついていないかもしれません。ウィッキーは(私,あなた,彼,彼女などの)人称代名詞をうまく使えません。人から何かプレゼントをもらうと,自分自身に向かって「キミ(自分自身)は『ありがとう』というんだよ(You say, 'Thank you.'」と言っています。

 ウィッキーは母親が腎臓に問題を抱えていたため,出産予定日の2週間前に計画的な帝王切開で出生した。出生時にはまったく元気で,授乳も順調であった。ただ母親はウィッキーが抱き上げられる時に,それを予期して迎え入れるような姿勢をとらないことに気づいていた。ウィッキーは生後7ヶ月で座ることができ,18ヶ月で歩けるようになった。

 ウィッキーは一人っ子だった。父親は植物病理学者(plant pathologist)で,「辛抱強い,落ち着いた人物」であり,父親自身の幼少期は言葉の発達が遅く,「繊細(delicate)」だったという。母親は「健康で,穏やかな性格」,職歴として秘書,購買係,また歴史の教師として働いたことがある。ウィッキーが生まれたとき,母親は34歳,父親は38歳であった。

 ウィッキーの父方祖父は変わった経歴の持ち主である。彼は1943年に自伝を出版したが,それは「合計11人の子供と孫たちに」献呈されている。彼は1911年に失踪し,25年間行方不明であった。その間,妻と離婚することなくイギリス人の女流小説家と結婚していたという。紳士録(Who's Who)には実名と変名の2つで載っており,4つの大陸を股にかけ,マンガン採掘,美術館の取締役,医学部の学部長,また医療使節の組織などの仕事をした。彼の(法律上の)妻は「生え抜きの宣教師」であった。彼は5人の子供をもうけ,ウィッキーの父親は2番目の子供である。4人いる息子のうち1人は新聞社に勤め,もう1人はSF作家,別の1人はテレビ局勤務,また娘は歌手として働いた。ウィッキーの母方の親戚については,ウィッキーの母親によれば「私の一族はとても普通の人たちです」ということである。

 ウィッキーの栄養状態は良好であった。頭の後部と前部が隆起していたが,レントゲン写真では頭蓋骨に異常は認められていない。生まれつき左の脇に3つ目の乳首があった。左右の扁桃は大きく,表面は凸凹していた。

 ジョンズ・ホプキンス病院の診察室では,ウィッキーはしばらくウロウロと歩き回った後,椅子に座って,意味不明のことをつぶやき,それからニコニコ笑いながら突然床に寝そべった。質問や指示に対してはまったく無反応だったり,オウム返しで応じたりした。人間よりもモノに興味を示し,物を扱うときの注意力は良好だった。ウィッキーは周囲の人たちを「好ましからざる侵入者」と考えていたようである。誰かが彼の面前に手をかざして,それを無視できない状況になると,ウィッキーはその手を(人間の身体の一部ではなく)独立した物体のようにして遊ぶのであった。ウィッキーは診察室にあった積み木と穴の形を一致させる型板(form boards)検査の道具をすばやく見つけると,自分から興味を持って課題に取り組み,上手に形を合わせることができた。

 ウィッキーは1942年9月(6歳時)に特別教育で有名なデヴルー学校(Devereux School)に入り,1965年8月(29歳時)までそこにいた。我々(ジョンズ・ホプキンス病院)と学校は頻繁に連絡をとり続けていたが,1962年の学校からの報告には次のようにある。「ウィッキーは現在26歳で,自発性はないものの,人からは好かれるタイプの男の子(boy)です。主な関心事は音楽です。日常生活のスケジュールはきちんと守ることができ,基本的に自分独りの世界で生きていますが,興味を持てる内容の集団活動には楽しんで参加することもできます」。ウィッキーは学校のお遊戯会(Parents' Day)では合唱グループに所属し,年1回の学校祭(carnival)ではスピーカー係を担当した。週末の休みには独りで近くの町へ出かけ,必要な買い物を自分でしていたという。

 ウィッキー(現在はクレイトンと呼ばれている)は,5年前から両親と一緒に住んでいる。彼は現在34歳である。デヴルー学校を出た後,クレイトンは家族とともにプエルトリコで1年間すごした。彼はそこで「たくさんのスペイン語を覚え,毎日午後4時からレコードで語学の勉強をする習慣がついた」。クレイトン一家はその後ローリー(Raleigh:米国ノースカロライナ州の州都-訳注)に移った。家族はジョンズ・ホプキンス病院への手紙で次のように述べている。
 「私たちは新しい家に落ち着きました。クレイトンは家事を分担してくれています。彼は近所の人たちと知り合いになり,時々ご近所を訪問することもあります。クレイトンは郡の作業所や職業訓練所に通い,そこでスタッフと仲良くなったり,他の研修生の援助をしたりしました。さらにそこでのお付き合いからボウリングを覚えて,今ではかなり上達しています。クレイトンは作業所からの推薦で,コピー機関連の単純作業の仕事につきました。1969年11月25日(33歳時)からは,アメリカ合衆国厚生教育福祉省(HEW)管轄の国立大気汚染管理局で,フルタイムの仕事をしています」
 上司である局長代理は,1970年4月29日付(33歳時)の手紙でクレイトンについて次のように評価している。
 「クレイトンは信頼性,完全性,同僚への思いやりといったあらゆる点からみて,すばらしい職員である」

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