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2017年2月19日日曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル14(L.カナーの成功例08)

ブログ管理担当のまさぞうです。

今日の基準からすると非常に重症の自閉症でありながら,
専門的援助なしで良好な社会適応を果たした
L.カナーの12症例のうち,第8例を紹介します。

症例8:バーナード・S

 バーナード・Sは1949年8月3日生まれ。ジョンズ・ホプキンス病院の初診日は1952年6月7日(2歳時)で,通っていた保育園からの紹介だった。保育園の先生たちはバーナードについて「孤立している」「他の子供たちと一緒にはいるが,まったくとけ込んでいない」と心配したのである。バーナードの振る舞いは奇妙で,言葉はオウム返し(echolalia)が目立った。彼は自分のことを3人称(「彼(he)」)で呼び,しばしば意味不明の微笑みを浮かべていたという。

 バーナードの父親は薬剤師で,自分の店(ドラッグストア)で長時間働いていた。母親には躁うつ病による気分の波がみられ,バーナードが生まれる9年前には数ヶ月間精神科に入院したエピソードがある。バーナードは結婚から14年後に授かった子供であり,彼の誕生は両親にとっては大きな喜びと驚きであったらしい。

 バーナードが生まれてまもなく,彼の母親は再び精神的不調をきたし,約1年間精神科に入院した。この間バーナードは自宅を離れ,育児婦(nurse)の家で育てられていた。母親が退院してきて自宅に戻された時,バーナードは15ヶ月になっていて,一人で歩いていたが,「自分で食べることはできない状態」だった。母親は完璧主義者で,特に我が子の食事には強いこだわりがあったという。母親はその後も躁うつの気分の波を繰り返し,精神科医による治療を受け続けた。

 両親はバーナードが2歳半の時に別居生活となった。別居から半年後,母親が息子をつれてフロリダへ出奔するという騒ぎを起こしたため,父親はバーナードを引きとって,彼のおば(父親の姉妹)に育ててもらうことにした。この頃,自宅を訪問した保育園の先生は,バーナードがおばと楽しくリラックスして生活していたと報告している。「私ははじめてバーナードがペラペラとうちとけて(volubly)話すのを聞きました」養育にあたったおばは,バーナードを保育園に戻すことを拒否した。自宅で自分といる方が,「バーナードにとっては必要な愛情や関心を注がれ,誰かに本当に愛されていると実感できる」というのである。

 その後,両親が再び同居するようになったため,バーナードは実父母との3人ぐらしに戻った。彼は4歳の時に保育園へ再入所した。バーナードは優れた記憶力を持ち,保育園の全園児の名前を覚えて,誰か欠席した児童がいると先生よりも早くそれを指摘した。ただ集団活動は苦手で,ごく短時間しか参加できなかった。家では近所の子供達が彼を「おかしな子(crazy kid)」とからかって遊んでくれないので,はじめは自宅で独りでいることが多かったけれども,後には子供たちをクッキーで買収して,ある程度仲良くやれるようになったという。

 バーナードの父親は20歳の息子について次のように書いている。
 「バーナードは19歳で高校を卒業し,一般の短大に進みましたが,大学生活は大変でした。もともと学業成績は人並みで,勉強熱心なタイプではないため,シンプルで平凡な進路を目指したものの,大学でうまくいかずに2年間を空費しました。高卒後最初の1年間は「進歩的な」短大で寮生活を試みたのですが,そこは実際は「ヒッピーのたまり場」のようなところで,彼は勉強に身が入りませんでした。ちょうどその頃実母が死去したため,バーナードは実家に帰り,もう大学へは戻りたくないと言い出しました。その後,幼いころ本人の世話をしてくれた父方のおばが夫を亡くして本人・父親と同居するようになり,バーナードは元気を回復しました」

 バーナードの父親は1968年(本人19歳時)に再婚した。バーナードは新しく来た継母と仲良くつきあい,事実上,精神科的な治療は不要になった。

 父親によればバーナードは「恥ずかしがり屋で引っ込み思案ですが,それが彼の気質のようです。一度女の子をデートに誘ったものの,まったく積極的に振る舞えませんでした。バーナードは衣服には無頓着で(hates clothes),自動車を運転し,プレッシャーさえかけられなければ何でも一生懸命やります。私(父親)のドラッグストアを手伝っていて,接客ではなく商品補充の仕事をしています。バーナードの最大の関心事は市街電車博物館で,そこのクラブの会員になっており,毎週日曜日には軌道をひいたり,車体の塗装をしたりしています。クラブの他の会員と旅行にいくこともあります。以前は歴史に熱中していました。今は国際政治に興味があり,新聞をよく読んでいます」。